沖縄関係

1854年5月17日聖現寺

皆さん、那覇の泊港を知っていますね。近くに聖現寺という寺がありますが、そこは1854年に琉球に来たペリー一行の一部の人々が寝泊まりしたところだそうです。この聖現寺に吉里筑登之が走りこんできた。1854年5月17日の夕暮れ前であった。

吉里筑登之:アメリカ水兵3人が人家に入り込み酒を奪い取り呑んでで酔っ払い那覇の市で暴れております。

アメリカ小官:何、水兵が暴れているとな。すぐに迎えにいくことにするが、貴殿にお願いがあります。水兵を乗せる籠を準備してくださいませんか。

吉里筑登之は配下の役人に籠の手配させ、アメリカ小官とともに那覇へ赴いた。聖現寺から那覇へは歩いて行った。約一時間くらいだろうか、那覇の市へついた。道中、色々アメリカ人の噂をしているのを聞いていた。しかしそのことを一緒にに来たアメリカ小官にははなさないでいた。

那覇の市

吉里筑登之・アメリカ小官が那覇に着いた時、2人の水兵は酒に酔いつぶれて,市中にたおれこんでいた。しかし、もう一人の水兵はそこにはいなかった。アメリカ小官はそれに気づき、

アメリカ小官:もう一人はどうしたのですか。

吉里筑登之はドキッとした。ここに来る前に通行人が、アメリカーが三重城で溺死したそうだぞ、と言うのを聞いていたので、そのことを話そうか迷っていたからである。

吉里筑登之:ここに来る道中、通行人が噂をしているのですが、三重城で溺死したそうです。

アメリカ小官:何、溺死したしたというのか。どうしてそれを早く言わないのだ。よし、三重城とかいうところへ行こう。

酔っぱらっている2人の水兵は、籠にのせて配下の者に寺まで送らせ、吉里筑登之とアメリカ小官は三重城へおもむいた。

 

死体の発見(三重城)

場所 三重城

時刻 6時

登場人物

          • 知念仁也
          • まつ宮平
          • まつ高江洲
          • にわぉ金城
          • かめ阿嘉

 

知念仁也 まつ宮平 まつ高江洲 にわぉ金城 かめ阿嘉5人が

楷船の縄掛けをするために三重城を通過した時だった。

「おい アレー あの白いのは何だろう?」何か白いものが海に漂っていた。

「何だか人みたいだねー。おいまつー お前飛び込んで引っ張ってこい」と言われまつ宮平が海に飛び込んで助け出した。

助けだされたのが「ウランだーだ。」と誰かが言うと「そうだ うれーウランだーだ」というが早いかすぐ口に出たのは「息はしてているか」だった。「息はしている。死んではない。番所に知らせよう」と番所へ届けようとして陸に上がろうとした時、周辺では大勢の人の人が集まっていた。その群衆の中に当時アメリカ人を尾行し役所へアメリカ人の行動様子を監視する役目を担うの追行人がいた。そこでその追行人に連絡したのである。

追行人が役場へ連絡した。連絡を受けた役所では吉里筑登之は天久寺に滞在している小官に連絡に行った。

天久寺・聖現寺

吉里筑登之:「水兵三人が酔って暴れまわっている。なんとかしてしてください」

アメリカ小官:「相わっかた。迎えに行くことにするが、貴殿にお願いがござる・水兵を乗せる籠を準備してくださらぬか」

吉里筑登之;「はい 承知仕る」

吉里筑登之は手下の者に籠を手配させ、アメリカ小官と一緒に那覇に赴いた。

那覇

那覇の市(まち)につくと水兵は酒に酔いつぶれていた。しかし、そこには三人いた筈だがもう一人の水兵はそこにはいなかった。

「もう一人はどうしたのじゃ?」と吉里筑登之は戸惑った。しかし周りの通行人や道行く人々がアメリカ人は死んだことをくち口にしゃべっていた。

それを聞いてので「よし 三重城へ行こう」

そこで酔いつぶれた二人を準備した2丁の籠にそれぞれ水兵を乗せ、配下の者に寺に送らせた。そしてもう1丁の籠にアメリカ小官を乗せ三重城に向かった。

三重城

三重城に着くと、溺れて倒れている水兵を見て

アメリカ小官が「今なら何とか手を施せば助かるかもしれないので、ベッテルハイム」を呼んでください」と言うので、ベッテルハイムを迎える為に護国寺に使いを使わせた。

「ベッテルハイムが参るまでは時間がかかるであろう」ということで溺れて元気を失っている水兵を戸で作った担架に乗せて護国寺に向かった。

護国寺

護国寺では、使者から事情を聴いてベッテルハイムが丁度出掛けようとしていた。丁度そこへ溺死した水兵を乗せた担架がきた。アメリカ小官はベッテルハイムに声をかけた。

アメリカ小官:「ベッテルハイム様 溺死したようだと琉球人は言うけど、今手を施せば何とかなるものと思い参りました。診ていただけないでしょうか」と言うが早いか、ベッテルハイムは担架に乗せられた水兵を見て「もはや絶命しておる。手を施してもどうしようもない。あきらめなさい」と言うのであった。その言葉を聞いて肩を落とし沈痛な表情にかわった。そのあと吉里筑登之とアメリカ小官はそれぞれベッテルハイムに礼を言って溺死した水兵を戸の担架にのせて聖現寺に連れて行った。聖現寺についてからアメリカ小官は、吉里筑登之に

聖現寺

アメリカ小官:「溺死した水兵の葬儀は明日執り行いたい」と言い、内に引っ込んだ。吉里筑登之も引き上げてて行った。

琉球の役人は、そこで役場に戻り上官に報告した。

翌日5月18日・聖現寺

聖現寺には、事件を聞きつけたジョーンズが本船からやってきた。琉球側では吉里筑登之を聖現寺へ遣わして、溺死した水兵の葬儀や棺などを琉球側で準備しましょうか、と伺いをたてたところ、いや棺は本船に準備してあるので結構です、ということであった。ジョーンズは総理官に渡してください、と文書を吉里筑登之に手渡した。

役場にかえってから先の文書を開いて見たが、英語で書かれているのでさっぱり意味がわからないのでベッテルハイムに漢文に訳させてもらったところ、ようやく意味が分かった。その文書の内容は大体次のようであった。「昨日の水兵ボードの溺死した事件について取り調べを行い、それを明日(19日)までに地方官を遣わして説明を行うようにしなさい」

5月19日 九ツ時分

国吉親方 総理官 板良敷里之子親雲上 吉里筑登之 溺死死体発見者5人 追行者等 昨日18日アメリカのジョンズから求めていた水兵ボード溺死事件の説明のため聖現寺へ赴いていった。アメリカ側は文書で報告するようにということであったが、口頭で説明をした。しかし、アメリカ側が対応したのは小官であったので、詳細については後でジョーンズが聖現寺に参るのでその時説明するようにしなさい、その時は連絡をするから、ということであったので一担は帰り、呼び出しがあるまで待機することになったのである。

その日の七ツ時分

ジョーンズ ベッテルハイム ボートン 水兵4人が泊へやって来た。先ほど待機するように申し上げましたがジョーンズが上陸しましたので、すぐ聖現寺まで来るようにしなさい、との使者がきた。そこで、先ほど参った国吉親方、総理官、板良敷里之子親雲上、吉里筑登之、死体発見者5人、追行者等は再度聖現寺へおもむいたのであった。

地方官が「一昨日の水兵ボード溺死事件は、まったく不幸ななことで何と申してよいかわかりません。そのことについては先ほどアメリカの小官達に口頭で事件の成り行きについては申し出たところですが今回は文書で事件の成り行きを書き記して参りました。目を通して下さいますように」と、言ってジョーンズに文書をを手渡した。地方官より文書を受けとったジョーンズは、その文書が読めないので同行してきたベッテルハイムに読んでください、と文書を渡した。

ベッテルハイムが、その文書を読み内容を伝えたが、ジョーンズの方からは琉球側へは何の質問もなかった。琉球側は、溺死した水兵が那覇の市に酔っているところを見た者、三重城の海中から救い上げた者達を連れてきたが、彼らは何の取り調べも行わなかった。ただジョーンズは私には取り調べる権限がないので取り調べはできないが、明日こちらの取り調べ官が上陸してここ聖現寺へ参りますので、その時連れて来てください、その時は地方官の同席なさったら良いだろう、と言いおいて では明日ということで、ボートに乗り、波之上でベッテルハイムを下ろし本船へ帰った。

 

 

5月19日朝 役場 総理官

19日朝 板良敷里之子親雲上 吉里筑登之 死体の発見者5人 国吉親方 総理官 追行人等水兵溺死事件の説明のため天久寺に赴く。アメリカ側は文書で報告するようにということであったが、口頭でその説明をした。しかし、アメリカ側は事件の詳細については乗頭が聖現寺へ参るがその時に説明するようにしたいということであった。一旦は帰り呼び出しあるまで待機することになった。

 

小官等 一出迎える。それぞれ挨拶を交わし寺に入る。その時総理官が国吉親方に文書を手渡し、それを乗頭へ渡す。

小官はそれを受ける

乗頭:事件の成り行きについて文書をもって来たのか。

総理官:文書は持参しなかったが、事件の成り行きについて口頭ででもし述べるようにと遣わされここへ参った。本来ならば地方官が参って直に乗頭の御船に参り、申し入れるべきでありますが、今日は両横様で乗頭様の船へは難しいので、私目がつかわされたのです。

小官:水兵を打ち殺した者が判明したか。

総理官:その件につきましては、乗頭様から文書をいただき、水兵を殺した者は誰だとの問い合わせがあり申したが地方官殿は笑っておられました。此の地の人が水兵を打ち殺した者はいません。その日アメリカ人水兵三人は那覇の家数か所に押し入り、その内の一か所から酒を探し出して、それをみんな呑みはなはだ正気を失い、その内二人は市中に倒れ、一人はあちこち走り歩くうちについに海原に落ちてしまった。それを船方の五人が見つけ出した時にはすでに命はなくなっていたということが調べて分かりましたので報告します。

小官:その水兵は何度も頭面を打たれたのか

総理官:そのことについては詳しいことは知らないけれども先に申した通り途中走り歩いてる途中転倒した時の疵だということです。

小官:その水兵は海中には、高い所から落ちたのか、あるいは浜辺より走って落ちたのか。

総理官:その場を見た者はいないが、那覇の市(まち)でアメリカ人水兵が酒に酔っているのを見た者、三重城の海中より水兵を救い出した者達はここに連れてまいりましたが、いかがいたしましようか。

小官:後で乗頭が上陸して詳細は伺うので、地方官殿は暫く帰っておられて結構です。乗頭が参り次第説明するようにするが良い。

八ツ時分帰る。

小官等も傳間船に乗り本船へ帰って行った。

5月19日 七ツ時分

乗頭 ベッテルハイム ボートン 水兵五人、伝間船に乗って漕いで来て天久寺に入り、そこで止宿之水兵を遣わして、地方官に直絡した。

そこで国吉親方は地方官に「乗頭が上陸しましたので、先ほどド待って居るように申し上げましたが。直ぐ参るように」とのことでございます。と連絡して天久寺拝殿に行く。

5月19日 天久寺拝殿

地方官:一昨日の水兵の変死事件は待ったく不幸中何と言って言いかわかりません。そのことについては、先ほど小官達に口頭で、この事件の成り行きを申し入れましたが、今回は文書に事件の成り行きを記して参りましたが、目を通してくださるようお願いします。

地方官より文書を受けたった乗頭は、その文書が読めないので、同行のベッテルハイムに読んでくれるとうにと、文書を手渡した。

ベッテルハイムが読みその内容を伝えたが、乗頭から琉球の役人への何の質問をしなかった。

通事:溺死した水兵が那覇の市(まち)で酒に酔っていたところを見た者と三重城で海より救いあげた人達を連れて参りましたが、どうしましょうか。

乗頭:こちらの方の取り調べ官が、明日そのもの達を取り調べるので、その時連れてきてください。

通事:乗頭様がその者達を対面して聞き取り下されば、事件の成り行きもきっとわかると思いますので、乗頭様方で聞いてみてはいかがでしょうか。

乗頭:いや 私たちの国ではそれぞれ職務が違うので私には取り調べをすることは出来申さぬ。明日その者達を連れて来るようにしなさい。その時には地方官も同席なさると都合が良いが、出席できないと申すか

地方官:私は公務が忙しいが、暇を見つけて参るようにしょう。

5月19日 日入り時分 帰る

乗頭等 伝間船に乗り波之上の浜でベッテルハイムをおろし、乗頭等は本船へ帰って行った。

その翌日 5月20日 四ツ時分

アメリカ人を乗せたボート1艘小官4人水兵7人唐人2人を乗せて泊に漕いでやって来た。その船にはベッテルハイムも乗っていた。

取り調べ官が上陸したので、先ほどの者を連れて来るようにということを琉球側へ連絡して来たので、またまた出掛けて行った。その時行ったのは先ほどと同じく国吉親方 総理官 板良敷里之子親雲上 死体発見者5人追行者等であった。

取り調べ官が上陸したので先ほどの者どもを連れてくるようにということを琉球の側へ連絡してきたので、またまた出掛けて行った。その時行ったのは先ほどと同じく国吉親方 総理官 板良敷里之子親雲上 死体発見者5人・溺死した水兵が那覇の市(まち)で酒で酔っているのを見た者・海から引き揚げた人と追行者達を連れて天久寺へ出掛けた。

天久寺ではまず知念という者が呼びだされ、ベッテルハイムからの取り調べがあった。

5月20日 天久寺

ベッテルハイム:アメリカ水兵を海中より引き上げた者か。

知念:そうです。

ベッテルハイム:アメリカ人水兵が溺死したという場所はどこだ。

知念:はい 三重城次矼というところでございます。

ベッテルハイム:あなたは水兵が海の中に落ちたのを見たのか。

知念:いや 見ませんでした。

ベッテルハイム:では貴方はどうしてその場所に行ってアメリカ水夫が溺れ死んだのを見たのだ。

知念:私たち 知念仁也 まつ宮平 まつ高江洲 にわぉ金城 かめ阿嘉は、楷船の縄掛けに行くため三重城のところを通ったところ海のそこから何か白いのを着た者が沈んでいるのを見て、ああもしかしてら、これはアメリカ人かも知れないと思い、一人が海中に飛び込ん伝間船に引き上げて見ると、もう息絶えておりました。

ベッテルハイム:では聞くが海の中に飛び込んで引き上げたのはその方か。

知念:いいえ 私ではありません。宮平という者が引き上げたのでございます。はい。

ベッテルハイム:アメリカ人水兵を発見した時刻はいつごろか。

知念:はい午後6時頃だったです。

ベッテルハイム:では発見した場所は橋よりどのくらい離れていたのだ。そして深さはどのくらいあったのじゃ。

知念:はい 橋からだいたい3m60cm(2間)ぐらいだったです。丁度満潮の中ごろでしたので、深さは2m40cmぐらいでした。

ベッテルハイム:その水兵が沈んでいたいたのは、真ん中か端っこのところかどちらであったか。

知念:はい 中央部でございました。

ベッテルハイムと知念のやり取りはアメリカ人小官が書き取りが済んだので、もう宜しいといわれ知念はその場を退去する。

知念に引き続き宮平 高江洲もひとりひとり知念と同じような質問を受けたが、それぞれの返答は知念と全く同じでそれぞれ食い違うところはなかった。

板良敷:残りの二人にも今までのように質問するのですか、あとのこりも今まで人と全く同じように答えておりますが、どうしますか。

ベッテルハイム:その二人は名を何という。

板良敷:金城 阿嘉 申す者にございます。

残り2人は名前のみ聞き取り調べへは行いませんでした。アメリカの小官はいままでのやり取りを書き取る。その後ベッテルハイムは地方官に向かって質問を始めた。

ベッテルハイム:地方官殿アメリカ人水兵が海に落ちるところを見た者あるいは知っている者はないかね。

地方官:それについては、いろいろとあっちこっち駈けずりまわり調べましたが、水兵が海に落ちるのを見た者はひとりもおりません。

ベッテルハイム:不思議なことじゃが、どうして溺死した水兵の頭面に傷があるんじゃろうか。

地方官:詳しいことは私に分からんが、きっと酔っていたのですから、転んだ時につけた傷ではないでしょうか。

ベッテルハイム:今度は吉里殿にお尋ね申す。地方官殿は下がってよろしい。(地方官すぐに下がる)聞くところによると、アメリカ水兵の溺死の事件は最初吉里殿より天久寺止宿の小官に連絡したというが、吉里殿は水兵が溺死したということは誰からきいたのだ。

吉里:私はその日泊に居りましたが、アメリカ人三人が那覇で酒に酔って人の家に垣を越して入り、門戸を破って暴れていると那覇の人から知らせがあり、私は急いで天久寺に参り止宿之小官に酒に酔って暴れている水兵三人を制止してくれるように申し入れ小官とともに、日が暮れるころ那覇へ行きました。そうしましたら水兵二人が那覇の市(まち)で酔っ払って地面にねころんでおりました。そこで右小官とともに天久寺へ送り届けようとしたときに、外の一人は海に落ちて溺れ死んでいると道を行く人達が言い言い合っているのを聞いたので若い小官に水兵が溺死したことを知らしてあげたのです。

ベッテルハイム:アメリカ水兵が溺死したということは、本当に那覇に来てから知ったのか。泊にいるとき知ったのではないか。

吉里:はい 私が泊にあるときは確かに水兵三人が酒に酔って暴れているということだけしか聞きませんでした。溺死のことについては知りませんでした。そして私は止宿の小官に知らせたのです。

そのことを

ベッテルハイム:三人共に酒を飲んでいたということを知っていたか。と聞いた。

吉里:はい 確かにその時に知りました。そして止宿の小官にも三人が酒に酔って暴れていますが制止してくれるように申し上げました。私が知らせた小官はあの方です(指をさして示す)お疑いならあのお方にお聞きになってください。

 

その時

ベッテルハイム:その時那覇の市(まち)で何か争いごとはなかったか。

と聞いたので、いままでわかってご存じの所に、その時アメリカ人が焼酎を奪い取って暴れまわっていたので、人々は恐れ逃げ回っていたので、どうして争いごとがあっただろうか。と答えたがベッテルハイムはくりかえしくりかえし同じことを聞いたが、琉球側は相もかわらぬ返答をこれまた繰り返した。

小官:アメリカ人水兵三人が呑んだ酒は買ったものか。

板良敷:さきに申し上げた通り人の家に押し入り家の人はびっくりして逃げたので家中探し回り奪い取ったものにござります。

小官:奪い取った酒の代金は支払ったのか。

板良敷:外の人の家に入り京銭3千文押しとったものの中から二百文を投げ置いたようでござります。

小官:して、〇〇京銭を押しとったところではかわりに銀を渡してているか。

板良敷:はい 蕃銭を投げおいたようでございます。

その日の取り調べはこれで終わった。アメリカ人の水死は琉球の役人に対して心配をを掛け申したなとあいさつをしたのですが板良敷が地方官に連絡して

次のように言った。

「アメリカ人の水兵は無理やり押しとって飲むものだからこのような色々事件も起こっておりますが向後はアメリカ人きっと取り締まりを厳しくしていただきたい。」

と申したら「琉球側も焼酎保管の方を厳重にして頂きたい」

このことはペリー提督よりも前に仰せつかっておりますが、こちらも取り締まりを厳しくしたい」と言い七ツ時分退散したのである。

ベッテルハイムの通訳によって アメリカの取り調べ官は事件のあらまし知り納得しているかのようだった。そしてこの事件ももうすぐ解決すると琉球の役人は思っていた。

ところが、6月7日 江戸に赴いたペリーが帰ってきて様相は一変したのである。

この事件はペリーが開国を要求しに江戸へ行っている間に起こった事件であった。ペリーはこの事件を聞き激怒して事件お真相を究明するように命令したのであった。そしてペリーの命を受けたアメリカ側の譒訳官 提督嫡子,小官2人が若狭町学校所にきて次の様なことをを言ってきたから問題が持ち上がったのである。

譒訳官 提督嫡子 小官2人が若狭町学校所へ来て次の様なことを言ったのである。

「我が国の医者がボードを解剖したが、ボードは酒を呑んだ形跡がなく、また頭に疵がある。これは何かで打たれたためできた物である。その後に溺死したのである。琉球人が今まで説明しているのはおかしい。このままではきっとペリー提督も納得しない筈だ。取り調べてきっと犯人を探し出して。引き渡すように。もし犯人を引き渡さいのであれば兵隊を引き連れて来るぞ。」

ボードは、酒に酔って溺死したのではない。琉球の人に殺されたのだ。だからすぐ犯人をう引き渡せ。引き渡さなかったら兵隊を引き連れてでも引き取るぞ、と脅しつけたのである。

その後、琉球側でとアメリカ側と何度か交渉がもたれたが、問題を解決するまでにはいかなっかった。そこで業を煮やしたペリーが自らこの事件解決のために乗り出して来るのである。

6月10日

総理官 久米村大夫 板良敷里之子親雲上等はペリー提督から呼ばれ、提督のいる船へ赴き、ペリーから次の様なことを言われた。

「前は貴国と我が国とは諍いが何もなく仲良しだった。日本とも『日米和親条約』を結び安心しておりました。ところが6月7日此の琉球に戻ってみると、わが国の水兵が殺害されたと聞き怒り心頭に達し、非常に面白くない。明日四ツ半(11日)時分まではきっと犯人を引き渡すように。もし約束を守らなければ那覇川前面へ軍艦を遣わして貴国の船の出入りを差し止めるぞ」と言われたのである。

琉球側では犯人の追求に乗り出して色々と調べたが、多くの人の取り調べを急には出来ないので日延べしたいと願いしたら12日の巳時半までは良いということであった。

犯人の引き渡す刻限の12日になって「明日(13日)巳の半時分にぺーリー提督は天久寺へ参るので総理官 布政官は天久寺(瀬聖現寺)へ赴き犯人を引き渡すようにとのペリーからの言付けがあった。13日に日延べされたのである。

いよいよ犯人を引き渡す日になったが、琉球側ではまだ取り調べが十分ではなかった。しかしこの上日延べするようにお願いしても聞き入れてもらえない。どうしようか、と苦悩していた。アメリカの兵隊はもう天久寺に来ている。もし刻限通りに犯人を引き渡さずにいれば、約束通り、ペリー提督の前で取り調べをしなければならなくなり、そうなればどのような扱いになるかも考えつかないでいた。

 

若狭町学校所

参将 譒訳官 提督嫡子 小官二人 唐人二人

六月十日 九ツ時分 参将 譒訳官 提督嫡子 小官二人 唐人二人が若狭町学校所まで入ってくる。それぞれ挨拶を交わしそれが済んで琉球側の役人が茶菓子酒肴のご馳走を出して接待しようとする。

「私たちは用事で参りました。終わらないうちご馳走をいただくことは出来ません。ご馳走は用事の後済んでからにしてください。」

譒訳官:「ペリー提督は今日上陸して参り総理官殿と面会の約束でございましたが、貴国の者が我が国の水兵を打ち殺し又天久寺の止宿者を連〇したのは、アメリカと琉球国とが仲良くなるというかんがえを捨てたものである。だから私は総理官に会いたくないと申し上げております。そこで私たちが遣わされ参りましたが水兵殺しの成り行きを詳しく説明願いたい」

板良敷:小さく柔弱な琉球の人々は今までかって大国の人々を傷つけたことは御座いません。また今まで問題になっておりますアメリカの水兵の溺死した事件については琉球の人が、水兵が海にに落ちて見た者はおりません。そのことは右の事件のことについては、貴国の者が天久寺において事件の成り行きについて取り調べになっております。その取り調べの様子は文書にも記載されておりますが、ぺりー提督にも伝達していただきたと思います。これは取り調べの写しです。どうかペリー提督にお渡しくださいませ」

(文書を付け乗頭に渡す。乗頭その文書を席で見てその後)

乗頭:「溺死した水兵をアメリカ国の医者が解剖して傷を見て言うには、その水兵は酒を呑んだ形跡は見えないと言う。この事件を決着するとなるとペリー提督も納得しないでしょう。」

板良敷:もし琉球の人がアメリカの水兵を打ち殺したのであれば身体に疵を負うはず。だのにその水兵には疵はないではないか。これからしても水兵は酒に酔って溺死したものと考えられます。

乗頭:疵はないというが、溺死した水兵は頭に疵がある。

板良敷:水兵の頭にある疵というのは、きっと酒に酔っていて転んだ時につけたものでしょう。もし今までの説明で納得しかねるのであれば、溺死した水兵、他の二人の水兵と外の一緒に酒を呑んでいるところを那覇の市(まち)で目撃したものがいますので、ここに呼び寄せ目の前で事件の成り行きを取り調べて下さい。

乗頭:そのことについて、ペリー提督に申し上げ相談いたすので、そこで待期しておいていただきたい。

そこで一応の話し合いは済んだ。琉球の人がペリー提督が・・・黒糖を所望しているというがそれを取り寄せましたがお受けください差し出すが提督が申した事が解決しない内は受け取ることはできない。それぞれ別れの挨拶を済まし、さきに乗ってきた伝間船に乗って本船へ帰って、その帰り際に

通訳官:明日ペリー提督は此処に参り取り調べるから総理官も参るように。

板良敷:アメリカ水兵が溺死した成り行きを見た者もないし、また殺した人も犯人を引き渡すことは出来ません。

乗頭:頭に疵がある。これは打たれたためにできたもので、そして溺死したものだ。

板良敷:その疵は転んだ時にに出来、また橋から落ちた時に出来たもので琉球の人が水兵を打ち殴りをしたものではありません。これらを良くお考え下さるようにお願い申し上げます。

乗頭:橋から落ちたのであれば疵は一か所に負う筈だ。頭の前と後ろに三か所の疵があるのは棒あるいは石ころで打たれたための疵にちがいない。

板良敷:転んだ時あるいはまた橋より落ちた時に二三度石に当たって負った疵かもしれないではないか。

そう言った時乗頭は怒りがこみあげて、語気をを強くした。

乗頭:きっと犯人を引き渡すように。もし引き渡さないのであれば兵隊を引き連れて此処にに参るぞ。そうなるとあなたたちは否応なく犯人を引き渡さなくてはならなくなるぞ。明日はペリー提督が上陸して取り調べる筈だ。

と言い残して暮れ時船に乗って波の上を経由してそこで唐人は降り、残りは本船へ帰って行った。

提督の乗船

総理官はペリー提督が会いたいので、久米大夫 板良敷里之子親雲上を引き連れ揃って提督の乗船へ参るようにとのことであったのでペリー提督の乗る船へ参ることになった。

ペリー提督と総理官の間では次の様なやり取りがあった。

ペリー提督:前は貴国と我が国とは諍いが何もなく仲良しであった。日本へも『日米和親条約』も結び、安心しておったところ、私は六月七日にこの此の琉球にもでって来たが、着いてみると、我が国の水兵が殺害されたと聞き怒り心頭に達し不安がござる。

総理官:そのことについては、取り調べておりますが、まだ解決いたしておりません。今日公館へ参り取り調べの様子を聞かされたが、なかなか込み入っておっていろいろ苦心して取り調べておりますれば、明日には解決できる見通しでございます。刑法構え布政官に申し合わせて那覇中を取り調べさせていますが、何しろ大勢の取り調べですので、容易には出来ないので、どうか もう少し待っていただけませんでしょうか。

ペリー提督:我が国の水兵が溺死したのは、日中のことであるから。人々の内には誰かは見ておるものがある筈だ。那覇だけのことであるから、きっとできる筈だ。犯人を早々に引き渡すように。

実は犯人は知っているなら、アメリカ側の役人に隠す必要はない。公正に取り調べたことを知らせて頂きたい。処罪の方法は貴国の法律の通りにやって構わない。わし達がアメリカがとやかく口はさむことはいたしませぬ。だから今日中には犯人をひきわたすようにしなさい。

総理官:前から申し上げていますように、水兵の溺死した様子を見た者もなく、また那覇はあちこちの村からいろいろな人が寄り集まるところではあるが、いずれは首里田舎までも取り調べいたしますが、それには時間がかかります。どうかもう少し日にちを延期してくださいますようお願いもうしあげます。

ペリー提督:今日までと申しておったが、では明日四ツ半時分まで待つことにしよう。明日まで待つのだから、その時約束を違わぬようにすること。いいですね。もしその約束を守らないと、那覇川口前面へ炮台を備えた火矢を持った兵隊を派遣して貴国の船に出入りをし仕留めるようにするぞ、きっと申しつけるぞ。

総理官:なるだけ約束の時刻までに申し入れの通り、犯人を引き渡すようにしたいとぞんじます。

溺死事件についての話が終わってのち、ぺリ-提督は琉球役人に誇らしく日本と和親条約を締結したことを誇らしく語り、その時に交わした漢文和文で書かれた二通を・・の金城に見せたということである。

そして八ツ時分 ペリー提督の船から帰ってきた。

 

提督乗船

久米村大夫 板良敷里之子親雲上

ペリー提督との約束の日がきた。その日の四ツ時分 総理官は久米村大夫 板良敷里之子親雲上を陳者として提督乗船へ遣わした。

板良敷:アメリカ水兵の溺死したことについては夜中に懸命に取り調べしましたが、多くの人の取り調べであるために、急には取り調べることができず、もう少し日を延期するお願いに総理官に遣わされてきましたが、宜しくペリー提督へとりついで願いたい。

アメリカ小官:いや それは出来ませぬ。きっと今日の四ツ半までには取り調べて犯人を引き渡すように。

板良敷:私どもは少しも油断しませんでした。夜通し町中を取り調べたが約束の日時に差し迫り急いで取り調べています。もし取り調べが済み解決したら、ペリー提督が直々に取り調べの場においで下さり、ご自分で直々に見るようにいたさせます。

そのことをアメリカの小官はペリー提督み取次日延べを許されることになった。

アメリカ小官:ペリー提督は日時を延べることを許すそうだ。ところで。我々アメリカ小官も見てもよいか。

板良敷:ようございます。

久米村大夫 板良敷 用事を済ませ 九ツ時分提督の乗船より帰ってきた。

若狭学校所

参将 譒訳官 唐人一人 水主五人 総理官 布政官 大夫 板良敷

総理官 布政官のいる前で取り調べが、アメリカ水兵が溺死した事件取り調べておる最中、アメリカ人参将 譒訳官 唐人一人 水主五人が入ってきた。

参将:溺死した水兵のことについての取り調べているか。

総理官:その通り

参将:見て取り調べているだろうことはわかるが、言葉はわからぬ。その扱い方からすると犯人が出てきたように見受けられるがどうだろう。

総理官:地方官の申し出るところによると、アメリカ水兵を琉球の人が傷害した者もなく、また溺死するところを見たという者もいない、ということであった。そこで昨日より本官はじめ布政官が出向いて取り調べた結果次のようなことがわかった。

溺死した水兵は天久寺止宿の水兵と共に人家より酒を探りて見つけ出して呑んで酔っ払い、その挙句溺死した水兵は人家に押し入り、婦人をいたずらしたのである。その婦人が泣き叫んでいるのを聞きつけて隣からあるいは通行人が寄り集まってきた。その内の一人が婦人に抱きついている水兵を引き下ろし追っ払たところ屋敷の外に集まっていた多くの人達が石を打ちつけたようである。恥じて逃げまどった水兵は海について溺死したようである。婦人がいたずらされるということは、女の人は甚だ恥ずかしいと思うものなので隠しておいたため、また地方官の取り調べが不足であったため、事件の成り行きが仲々つかめないでいたのです。しかし、本官が眼の前で取り調べたら今の述べたような事実がわっかたのです。

参将:水兵が琉球の婦人を辱めたということは申してないのは困ったことだ。その上、首里那覇はわずかの距離だから総理官に早く知らせた筈なのに、一か月もそのことは総理官には・・・知らなかったという。まことにもって信じ難いことである。

総理官:総理官は国中の仕事がいっぱいあって、各役所の任務仕事についてはその役所からの報告があるまではわかり申さぬ。先の水兵の溺死事件については何の報告もされず知らなかった。

参将:水兵に辱められた婦人はどこのなにがしだ。どのような仕事をして生活しているのだ。そしてその家は婦人が何人おるのだ。

総理官:那覇近辺の者で、平日は機織りなどをして暮らしております。その家には婦人が一人しかおりません。

参将:水兵が婦人を辱めている時に、立ち寄った者というのはその婦人の夫か

総理官:いや その婦人の夫は早くに死んで今はおりません。

参将:では 早く取り調べの上、犯人を引き渡すように。

総理官:貴殿等が見ての通り多人数を取り調べておりますので、ここ二三日内には取り調べが終わりそうにもございません。どうか貴殿等がペリー提督へ日延べをしてくれるようお取りはかり願いたい。

このようなやり取りがあった後、アメリカ人参将は琉球とアメリカとの通商和親条約については、この溺死事件が解決した後、別紙に書いてある通りに結びたいと思っているので、御覧になり検討しておくようにと言い残して八ツ時分、若狭町学校所を出て護国寺に赴き、まもなく乗ってきたボートに乗って本船に帰っていった。

6月12日 若狭町学校所

六月十二日七ツ時分 アメリカのボート一艘が波之上下浜にたどり着いた。参将 譒訳官 ペリー提督嫡子の四人であった。彼らは浜に降りると若狭町学校所へ向かって行った。彼らがそこに着くと丁度そのころ若狭町学校所では総理官 布政官もいた。

譒訳官:アメリカ人水夫溺死したことについて、疵を付けた者の犯人を引き渡すように前に申し上げておいたが、その引き渡しの約束の時は昨日であった。(11日) しかし取り調べ中であることは昨日、私達は眼の前で見、そして貴国の総理官から日延べをするようにとのこともあって、そのことをペリー提督に申し上げたら、提督は今日まで刻限を延期してもさしつかえない、ということであった。しかし明日(13日)の巳の時半にはペリー提督は天久寺へ参るので、総理官 布政官は天久寺へ赴き犯人を引き渡すように。もっとも兵隊は今日からその寺に駐留させておく、ということだ。私達はそのことをペリー提督から申しつかってきたので、知らせておく。

総理官:アメリカ水兵溺死した事件について取り調べてた結果、次のようなことが分りましたので一応報告しておきましょう。

六人は浜辺まで石ころを投げながら、水兵を追いかけました、ということが取り調べたら判明いたしました。しかし、なお追及してみますと溺死した場所のすぐ前までは追って行ったが現場まではは行ってないと言い、六人を取り調べていますと、六人とも食い違いがあってまだ十分な取り調べは出来ていませんでしたので、日延べして許されたので再度六人を十分に調べたい。

参将:そして六人が石を水兵に投げて当てたのか。

総理官:そのことについては、まだ十分にはわからない。

参将:多人数を取り調べては急に取り調べは出来ないのであれば、水兵を追っ払ったと申している者どもを引き渡すように。

総理官:婦人の辱められるということは、その婦人が可哀そうにと思いますと人々は仲々証人になりたがらないものです。しかし石ころを投げた者達はいずれ必ずや明らかになるでしょう。犯人を引き渡し罪を与えずにおいては安心できませんので貴殿には眼前に思われた通り、私どもは油断しているわけでもなく一生懸命になって取り調べをしています。どうかこのところを理解下さり提督へお願い申し上げたら、日延べを許してもらいました。明日(13日)巳の時分半までに取り調べができず引き渡しができないようになるならば、・・・罪人共を引き連れて天久寺へ参りペリー提督の前で取り調べをしたいと思います。

 

 

いよいよ犯人を引き渡す日になったが、琉球側ではまだ取り調べが十分ではなかった。しかしこの上日延べするようにお願いしても聞き入れてもらえない。どうしようかと色々苦労をしていた。アメリカの兵隊はもう天久寺に来ている。もし刻限通りに犯人を引き渡さずにいれば、約束通り、ペリー提督の前で取り調べをするようになり、そしてどのような扱いになるかも考えつかないでいた。そこで今まで取り調べた者の内、かま渡慶次は石をアメリカ人水兵の頭に当て、国吉秀才 屋良にや 新垣にや 知念にや まつ金城の五人はアメリカ人水兵を追っかけて石を投げたが、水兵には当たらな当たらなっかったと言い、それぞれ皆本当な犯人ではないが、彼らを犯人として引き渡すことに決定したのであった。渡慶次は八重山に一世の島流しも刑 国吉以下五人は宮古島へ八年の刑にする、としたのである。

約束の刻限は刻々と迫っていた。ペリーがもうくるだろうか。

五ツ時分 琉球側では意を決してペリーの船へ行った。

水兵溺死事件の犯人の取り調べは終わったので、その犯人の引き渡しは天久寺において行う筈であるが総理官 布政官が船元へ行って事件の成り行きを説明したい旨を伝えるためであった。

ペリーはそれを許した。一担 四ツ時分 総理官 布政官は帰った。それからまた、その日の九ツ時分 アメリカ人水兵溺死事件の成り行きを説明するために、ペリーの船に向かった。その時犯人の渡慶次も一緒に引き連れていた。それは犯人の一人は本船に連れて行かなければペリーはその事件について納得しないだろうというアメリカ小官の言葉に従ったためであった。ペリーの船に着くと、参将が伝間に降りて迎えてくれた。直ちに提督の部屋に案内された。

6月13日 提督乗船 ペリーの船

総理官 布政官 大夫 板良敷里之子親雲上 渡慶次

提督:罪人を私の前に引き出すように。

総理官 事件を取り調べた書付け文書と問付書 科書を提督に渡し、その後罪人渡慶次を提督の前へ引き出した。

提督:琉球の法律では、人を殺した者は全て同罪の筈であるが、水兵がある疵はこの者の投げたものが当てたわけではなく、外にも四五人いるようであるので、罪一等を許すわけもあるので琉球の法律の通り処罰するように。また、ここにいる罪人は琉球役人にのもとへ帰して差し支えない。

渡慶次は琉球の法律が処罰することになり、琉球の方へ帰された。

提督:婦人を辱めたのはすごく極悪にあたる。もし水兵が生きていればその罪は軽くない筈であるが死んでしまってからはどうしようもなく処罰しようもないが、酒に酔った二人は宝互担船で取り調べ厳重に処分したい。

これこそ公平で友好の証であると思う。

提督:で、罪人はいつ頃島流しにするのだ。

総理官:順風次第、島流しにしたいとおもいます。ハイ

提督:それでは八重山島へ流刑との証拠となる文書を付明日、印押して渡すようにするがよい。

これでこのアメリカ水兵溺死事件は決着を見た。その後茶菓子・酒をご馳走になり八ツ時分帰った。

時1854年旧暦6月13日のことであった。

帰りも疲れただろうとペリーの準備したアメリカのボートに乗って帰った。

1854年6月17日 琉米修好条約に調印

1854年6月23日 ペリー那覇出港ーベッテルハイムも同乗して琉球をさる。