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(agijimaの日記)

2021/09/17(金) 女官生姑魯妹

○女官生姑魯妹

「琉球入学見聞録」巻三、官生(病故附)の項で藩相は姑魯妹について「姑魯妹、中山國人、入学之年闕(諸録誤以姑魯妹、爲官生、荒誕殊甚」と記し、汪楫・徐葆光・周煌の各々の使録で姑魯妹を女官生としているが、それは荒誕殊に甚しいものであり姑魯妹は女官生ではない、と諸録を批判している。一体、姑魯妹は汪楫・徐葆光・周煌等がいうように女官生だったのだろうか、それとも藩相が批判しているように女官生ではなかったのだろうか。そのこと及びその入監年を考察するのが本稿の趣旨である。
先ずはじめに、沖縄の先学は姑魯妹についてどのような見解をしているかを見ることにする。「沖縄一千年史」で真境名安興は次のように書いている。
『明史に「廿九年春使を遣はして来貢す。山南生の國學に肄ふ者歸省す。其冬復來る。中山亦塞
マ マ
官の子二人、及び女官生姑魯二人先後して來り業を肄ふ。其の華風を感慕すること此の如し。」とありて、亦女官生のことをいへるも、支那清朝の琉球官學教習藩相の著はせる琉球入学見聞録(巻三)を見るに「姑魯妹中山國の人、入學の年闕くとあり、下に諸録誤って姑魯妹を以て女官生となす荒誕殊に甚だし」として之を否定せり。蓋し或は然らん』と。
真境名安興は藩相の姑魯妹女官生否定説に「蓋し或は然らん」と同調する見解を示しながらも、完全には否定はしていないようである。沖縄の先学達の中で姑魯妹についての評価見解をしたのはこの真境名安興が最初であるが、真境名安興
の評価は推量の域を超えてはいない。
ところが、真境名安興より後の歴史研究者である仲原善忠が姑魯妹についての見解をその著作である「官生小史」で姑魯妹の入監年を洪武三十一
ママ
年と断定した上さらに『「明史」「中山沿革史」等女子ト誤ル。「入学見聞録」ソノ他ハ否定ス』と記し、姑魯妹を女官生とする説をほぼ完全に否定し、且つ真境名安興が明らかにしなかった入監年を三十一年としている。
真境名安興・仲原善忠よりさらに下って最近の研究者である阿波根朝松の「琉球育英史」に至ると、姑魯妹が女官生であるという説を完全に否定し、おまけに、妹は音借であるとする見解まで附するようになるのである。
以上、代表的な沖縄の官生の歴史を研究した歴史家の見解を見たが、姑魯妹についての沖縄での最初の評価者である真境名安興は姑魯妹を女官生ではないかもしれないとの推定の段階の見解を示したが、時代が下って、後の研究者である仲原善忠・阿波根朝松の時代になると、女官生ではないと断定的あるいは完全に姑魯妹女官生説を否定し、その見解は変化してきている。最近(昭和六十二年現在)はほぼ完全に阿波根朝松の見解が流布しているようである。
では、藩相を起点とした阿波根朝松の代に至って完璧に定着した観のある姑魯妹女官生否定説は、ほんとうに正当な見解なのであろうか。姑魯妹が女でなかったという評価は正しいのだろうか。
沖縄における研究者が、姑魯妹が女官生ではないとしたのは藩相の「琉球入学見聞録」の記述をその根拠にしたものである。そして、姑魯妹が女官生であるという根拠になるものもまた中国側の史書・史料である。従って、姑魯妹が女官生であるのか否かを考察するには中国側の史料の検討をする必要があろう。
ところで、姑魯妹について記した中国側の史料には「明実録」「野獲編・琉球女入学」「中山沿革志」「中山傳信録」「琉球國志略」「明史稿」
「古今圖書集成(方輿彙編裔典第一百巻琉球部)」「明史」「續文献通考」「琉球入学見聞録」等がある。一応、参考までに、その「資料」を載せて置く。
 嵬声堆拭
洪武三十一年三月戊申朔
(戊申)、琉球國中山王察度、遣其臣亞蘭匏、押
撤都結致・毎歩結致・撤都奴侍、貢馬及黄胡椒等物、其世子武寧、貢如之、先是、其國遣女官生姑魯妹、在京讀書、至是、謝恩來貢、
◆嵬邀擁圈廖蔑圧綵入学)
洪武二十九年、琉球國入貢、先是、其國山南王
ママ ママ
遣其姓三五郎等及寨官之子麻著里等入大學、既三
年歸省、至是、復與貢使善佳古耶等來、乞仍入大學許之、至三十一年、其國中山王察度。遣其臣亞蘭匏等、貢馬及方物、先是、其國遣女官姑魯妹、在京讀書、至是、來謝恩、因而入貢來朝、外國如朝鮮號知詩書者、間游國學、或至登第、然未聞婦人、亦來中國誦向慕華風、至此、真史策未見
「中山沿革志」
三十一年、王遣亞蘭匏等、貢馬及硫黄、世子武寧貢如之、女官生姑魯妹偕入謝恩、以昔常在京讀書也、太祖賜鈔有差・・・・
ぁ崔羯角信録」
三十一年、王遣亞蘭匏等、貢馬及硫黄、世子武寧貢如之、女官生姑魯妹偕入謝恩、以昔常在京讀
書也、太祖賜鈔有差
ァ嵶圧縱∋嵶」
三十一年、王遣亞蘭匏等、貢馬及硫黄、世子武
寧貢如之、女官生姑魯妹偕入謝恩、以昔常在京讀
書也、三月、太祖命以冠帯賜王、並賜臣下冠服。
Α嵬聖帽董
山北王怕尼芝已卒、其嗣攀安知、二十九年遣使來貢、令山南生肄國學者歸省、其冬、復來、中山亦遣寨官子二人、及女官生姑魯妹二人、先後來肄業、其感慕華風如此
А峺添T書集成」
洪武二十九年、琉球入貢、遣其國人及女姑入國學肄業。
按明外史琉球傳、洪武二十九年春、山北王遣使來貢、令山南生肄國學者歸省、其冬、復來、中山亦遣寨官子二人、及女官生姑魯妹二人、先後來肄業、其感慕華風如此
─嵬聖法
山北王怕尼芝已卒、其嗣攀安知、二十九年春遣使來貢、令山南生肄國學者歸省、其冬、復來、中山亦遣寨官子二人、及女官生姑魯妹二人、先後來肄業、其感慕華風如此
「續文献通考」
二十九年春、令山南生肄國學者歸省、冬復來、中山亦遣寨官子二人、及女官生姑魯妹二人、先後來肄業、其感慕華風如此
「琉球入学見聞録」
姑魯妹、中山國人、入学之年闕(諸録誤以姑魯妹爲女官生、荒誕殊甚)
さて、右の中國側史料に於ける姑魯妹の記述内容を分類すると、(一)明実録系、(二)明史稿系、(三)野獲編系、(四)琉球入学見聞録系の四つに大別出来るようである。
明実録系とは「明実録」「中山沿革志」「中山傳信録」「琉球國志略」等の系列の史料群で、その記述の特徴は、姑魯妹を女官生であると明確に規定してはいるものの、その入監年は記さず、先に在京読書した恩を謝するために洪武三十一年に來京したとする点にある。
明史稿系とは「明史稿」「古今圖書集成」「明史」「續文献通考」等の系列の史料群で、その記述の特徴は、姑魯妹を女官生であると明確に規定し且つ入監年を洪武二十九年としている点にある。
野獲編系とは、「野獲編」で、その記述の特徴は、女官生の存在を明史稿系の如く記述してはいるが、それが真実であるか否かを「真史策」で確認できないとして懐疑的に捉えているが否定はしていない点にある。
琉球入学見聞録系とは「琉球入学見聞録」で、その記述の特徴は姑魯妹を女官生であることを完全に否定し、入監年は「入學之年闕」として不明としている点にある。
右の中國側の史料に於ける姑魯妹の記述の系譜を図示すると次の如くになる。
姑魯妹 女官生であることを肯定 明実録系 「明実録」「中山傳信録」「琉球
國志略」(入監年の明記なく、三
十一年に在京讀書した恩を謝するた
めに來京したことを記す。)
明史稿系 「明史稿」「古今圖書集成」「明
史」「續文献通考」(入監年を洪武
二十九年とする)
女官生を懐疑的に捉える 野獲編系 「野獲編」(姑魯妹についての記述
及び入監年の記述は明実録系と同じ
女官生であることを否定 琉球入学見聞録系 「琉球入学見聞録」(「入
監之年闕」とする)  中国側の史料を見ると姑魯妹女官生肯定説の起点となるものが「明実録」で、女官生否定説の起点にあるものが「琉球入学見聞録」が唯一のものであることが分る。従って、姑魯妹が女官生であるか否かは「明実録」「琉球入学見聞録」のいずれの記述を信じ採用するかを検討することによって明らかにされるだろう。以下これを考察してみたい。
「明実録」について和田久徳は「沖縄大百科」で次のように記している。
「中央地方の諸官庁の記録類を主材料にし、根 本資料にもとづいて記述されているため『明実 録』は明朝に関する歴史研究にとっても重要な 史料である。」と。
この重要な史料でる「明実録」にももしかしたら誤謬はあるこも知れない。もし、仮に誤謬があるのであれば当然重要な史料であっても訂正されなければならないだろう。しかし、「明実録」は根本資料によって記述された史料価値の極めて高いものであるだけに、その記載の内容を否定・論駁するには、それに相当する史料価値の高い史料を引用活用して論理的に考察して訂正すべきであろう。もし、論理的な考証に基づいた論駁がなければ、「明実録」に記載された記述を妥当なものとして採用すべきである、と考える。
しからば、「琉球入学見聞録」の著者藩相は、姑魯妹についての「明実録」の記述を論理的に考証し、その記述内容を論駁しているかというと、そうではないのである。「明実録」に匹敵する史料を駆使して論理的に考証して論駁する手続をすることなく、ただ「姑魯妹、中山國人、入學之年闕(諸録以姑魯妹爲女官生、荒誕殊甚)」としているのみである。この藩相の記述は「明実録」記載の姑魯妹女官生肯定説を覆し得るような論理的考証はなく、非論理的な推量の域を出ない見解を披瀝したものであり、「明実録」女官生肯定説を覆し得たとはいえない。従って、「明実録」記載の姑魯妹女官生肯定説を妥当な見解であるとみるべきで、藩相の姑魯妹女官生否定説は棄却されるべきであると考える。
藩相を起点とし、阿波根朝松の代に至って完璧に定着した観のある姑魯妹女官生否定説は、藩相の説が否定棄却されたのであるから、藩相の説を根拠にして導引された沖縄の歴史家達の説く姑魯妹は女ではないという評価は当を得たものとはいい難く、次のように修正されるべきであろう。
『姑魯妹は「明実録」に女官生であると明記されているから、女官生である』と。
姑魯妹が女官生であることはほぼ確認できた。次に入監年について考察してみたい。姑魯妹の入監年について諸書の見解を示すと次の如くになる。
明実録系・・・入監年の記録なく三十一年に先 に入監したことに対する恩を謝 する爲に來京したことを記す。
明史稿系・・・入監年を洪武二十九年と明記。
野獲編系・・・入監年は明実録系と同じ。
琉球入学見聞録系・・・「入監之年闕」
沖縄の研究者
真境名安興・・明史を引用して洪武二十九を入        監年とする。
仲原善忠・・・洪武三十一年を入監年とする。
阿波根朝松・・仲原説を踏襲して洪武三十一年        を入監年とする。
姑魯妹の入監年については右に見たように、入監年不明、洪武二十九年、洪武三十一年の三つ説がある。果たしてどれが入監年として当を得た見解かを考察したい。
まず、仲原善忠の洪武三十一年入監説から考えることにする。
仲原善忠は「官生小史」で姑魯妹の入監年を洪武三十一年としているが、何を根拠にしているかをまず明らかにし、それによって導かれた見解が妥当なものであるか否かを検討していくことにする。
仲原善忠は「官生小史」で姑魯妹について記すに「明史」「中山沿革志」「琉球入学見聞録」を参照しているようであるが、「明史」は入監年を洪武二十九年としているので、「明史」は入監年の批定には参照されてない。また、「琉球入学見聞録」は「入監之年闕」としているので、これも参照されてない。従って、残りの「中山沿革志」に拠っていると考えられる。
「中山沿革志」は「明実録系」の史料で、これからは洪武三十一を姑魯妹の入監であると導きだすことはできない。先にあげた史料をみても明らかな如く、確かに「中山沿革志」の洪武三十一年の条に姑魯妹のことを述べてはいるが、そこには前に在京讀書したことがあるので、その恩を謝するために洪武三十一年に來京したことを記しているのであって、決して姑魯妹が三十一年に入監したとは記してはないのである。仲原善忠が洪武三十一年を姑魯妹の入監年としたのは、「中山沿革志」の誤読によって導引した見解であると考える。すなわち、三十一年入監説は誤りであると見るべきであろう。
姑魯妹の入監年についての三説のうちの一説すなわち洪武三十一年入監説は否定された。従って、残りの二説、すなわち、入監年不明、二十九年入監説のいずれを採用するかであるが、明史稿系史料に従って一応洪武二十九年を姑魯妹の入監年であるとしておこう。
さて、「明史稿」洪武二十九年の条を見ると、「中山亦遣寨官子二人及女官生姑魯妹二人、先後來肄業・・・」とあり、洪武二十九年には四人入監していることがわかる。ここに若干の問題がある。「女官生姑魯妹二人」をどう解釈するかである。すなわち、「姑魯妹二人」というのは姑魯妹と別人を合わせて二人と解釈するのか、それとも姑魯、と妹とに区切って二人と解釈するのか、あるいは姑と魯妹の二人と解釈するのかという問題があるのである。「明史稿」の「女官生姑魯妹二人」あるいは「中山沿革志」の「女官生姑魯妹偕入謝恩」を各々を単独に見た場合は、姑、魯妹あるいは姑魯、妹の二人と解釈することも可能である。
ところが、「明実録」に「先是、其國女官生姑魯妹在京讀書、至是、謝恩來京」とあることによると姑魯妹を一人として解釈した方が妥当であるようである。その他の史料を見ても姑魯妹を一人として解釈した方が妥当であるように書かかれている。
姑魯妹は一人であるとするなら、「明史稿」にいう「女官生姑魯妹二人」とあるのは、女官生姑魯妹と別人の合わせて二人と解釈できる。
姑魯妹が女官生であること、入監年は洪武二十九年であること、及び姑魯妹は一人であることが確認できた。となると、次に問題となるのは、「明史稿」に「女官生姑魯妹二人」とあるように、姑魯妹とともに来たもう一人の人は誰であったか、ということにになろう。次にこれを考察することにする。
姑魯妹は洪武二十九年の入監である。そのとき姑魯妹は誰とともに来たかを考察するには、洪武二十九年の入監者が何人で、誰々であったかを明らかににするこにようって解決できるであろう。
「明実録」洪武二十九年十一月乙卯朔(戊寅)の条をみると次のような記録がある。
「中山王世子武寧・・・中略・・・遣其寨官之子麻奢理・誠志魯二人、入太學、先是、山南王遣其三五郎、入太學、既三年歸省、至是、復與麻奢理等、偕來、乞入太學、詔許之・・」と。
この「明実録」の記録から、洪武二十九年には麻奢理、誠志魯、三五郎の三人が入監したと解釈できるが、姑魯妹を含めて四人入監したと解釈するのは難しい。しかし、麻奢理等の「等」というのを無理に解釈すれば、その中に姑魯妹が含まれていると考えることもできるが、三人が入監したとみなすのが無難なようである。すなわち、「明実録」からは、姑魯妹が二十九年に入監したと導きだすのは難しい。
ところが、「明史稿」の洪武二十九年の条をみると「寨官子二人及姑魯妹二人」とあって、洪武二十九年には四人入監した如く記されている。
洪武二十九年には四人入監したようである。では、その四人とは一体誰々であったのだろうか。
「明史稿」にいう寨官子二人とは「明実録」にいう「寨官之子麻奢理、誠志魯」の二人であることはすぐに了解できる。では、「明史稿」に「女官生姑魯妹二人」と記しているように、姑魯妹とともに来たもう一人は誰かということになる。
さて、「明史稿」に「二十九年春、遣使來貢、令山南生肄國學者、歸省、其冬復來」という記録があるが、それにいう山南生とは「明実録」の洪武二十九年二月己丑朔の条に「詔遣國子監琉球生
三五郎等歸省」と記す三五郎であろうことがわかる。
そこで、三五郎について整理すると次のようになる。
々辛霪鷭集淒、三五郎、入監(「明実録の洪武二五年の条)
洪武二十九年二月、三五郎、三年國子監で勉学して歸省す(「明実録」二十九年の条)
9辛霪鷭酋綰十一月、三五郎入監(「明史稿」及び明実録)
「明史稿」にいう寨官子二人とは「明実録」にいう麻奢理・誠志魯の二人であり、「明実録」と「明史稿」から三五郎は洪武二十九年の冬に入監したことが明らかになった。
以上のことから、姑魯妹とともに洪武二十九年に入監したのは三五郎であると考えることができる。従って、洪武二十九年に入監した者は、麻奢理・誠志魯・三五郎・姑魯妹の四人であったということができる。
まとめ
仝範ニ紊禄官生である。
姑魯妹は三五郎とともに洪武二十九年に入監した。
9辛霪鷭酋綰の入監者は、麻奢理・誠志魯・三五郎・姑魯妹の四人であった。
以上「女官生姑魯妹」につい考察してきた。わたしは今まで見てきたように「女官生姑魯妹」は存在したと思う。しかし、偉い先生が姑魯妹女官生説を否定し、それが定着している中でわたしの小論が許認される得るかはいささか疑問なしとはせざるも、とりあえず、先学の後塵を拝し小論をまとめてみた。御批正を賜はらば望外の幸いであります。(昭和六十二年脱稿平成7年刊に付

2021/09/17(金) 刑死にあった山南生官生賀段志

刑死にあった山南生官生賀段志

段志毎は洪武26年入監の中山王察度派遣の官生である。この段志毎の入監の時に他にもう一人いてその人は刑死にあった説く書があるが、果たして洪武26年には二人の官生が入監していたのであろうか。もし二人入監していたとしたら、誰と誰であったのだろうか。刑死に遭ったのは誰であったのだろうか。それらを明らかにするのが目的である。

諸書によると洪武26年入監官生について次のように記している。

『明実録』・・・洪武二十六年四月乙亥朔 (辛卯)琉球國中山王察度、遣̪使壽禮結致、貢馬及方物、幷遣使寨官子段志毎、入國學讀書

『中山沿革志』・・・二十六年、遣使麻州等貢方物、已又遣使壽禮結致等、貢馬、偕寨官子段志毎、入國子監讀書、太祖命賜夏衣靴襪、秋又賜羅絹衣一襲、跡漏撞詆朧瓠∋明А∈佗有賜

『中山世譜』・・・二十六年己酉、王遣麻州等、貢方物、又遣壽禮結致等。貢馬、偕寨官子段志莓(ママ)、入監讀書

『女官生姑魯妹』・・・三五魯毎が洪武二十六年に入監(明実録と明史をもとに私が導いたもの)

以上の記録から見て洪武26には段志毎一人が入監したものと思われる。ところが阿波根朝松の『歴代官生氏名年表』を見ると

37段志毎にしみ外一人 1392 洪武26 元中10 中山王察度 寨官ノ子 遣明使者 見聞録には段志毎と表記。他の一人は詔書をしたるため彼の地で刑死(仲原氏覚書)

また仲原善忠の『官生小史』所載の『官生年表』を見ると、洪武26年入監官生のことを次の如く記している。

3 洪武26(1393) 中山王察度 段志毎 寨官ノ子 「明使」(ママ)二四(ママ)トアリ 中山生一人死刑、詔書ヲ非難シタ罪

右の阿波根朝松と仲原善忠の両氏の説に若干の問題があるので考察を試みたい。

仲原善忠の『官生小史』の洪武26年の入監官生段志毎の備考に『中山生一人死刑、詔書ヲ避難シタル罪』とあるのは、『明史(巻223 外国4 琉球傳)』の明年(洪武26年)『中山両入貢、又遣寨官子、肄業國學、是時國法嚴 中山與山南生 有非議詔書者、帝聞 置之死、而待其國如』に拠っていると思われるが[注1]この『明史』の記録からは、仲原の説くように中山生一人が死刑になったという解釈は生まれえないと考える。何故なら『明史』を素直に読んで明らかな如く『明史』には入監」したのは中山の段志毎のみであり、そして「中山與山南生」が刑死になったことを記しておるのです。決して中山生のみが刑死にあったということことは書かれてはいないのである。従って仲原の『官生小史』の備考欄に於ける誤解によって生じた説を踏襲して、洪武26年入監者を段志毎 外一人とした阿波根朝松の『備考欄』の説も誤りだといえよう。

では右に記した『明史』をどの様に解釈」すべきだろうか。『明史』で「是時」とは」、洪武26年である。前に見たように洪武26年には中山官生段志毎が一人入監しているのみである。なのに『明史』では「中山與山南生」記している。これをどう読むのかだが、中山生と山南生とが刑死されたのであるから 洪武26年に段志毎が一人入監したときには、すでに山南生がいたということになるだろう。

さて洪武26年現在に於いて在監かんして琉球ンお官生にどのような人達がいたのどろうか。『明實録』に拠ると、日孜毎(中山生)[注2]、濶八馬(中山生)[注3]、仁悦慈(中山生)、三五郎尾(山南生)、實他盧尾(山南生)、賀段志(山南生)及び26年入監の段志毎(中山生)の7人が在監している。この7名のの中に、詔書非議して刑死されたものがいたのであり、決して洪武26年の入監者が2人いてその中の一人が刑死されたのではないのである。

何名が刑死されたのかしる術もないのであるが、三五郎尾(山南生)、實他盧尾(山南生)の2人は『明實録』に洪武29年

に帰国したとあり、仁悦慈(中山生)も『明實録』に『洪武30年8月庚辰朔、賜國子監琉球生仁悦慈等羅衣、人一襲』とあるから、この3名は刑死されなかったことは確実である。

洪武26年現在在監していた7名の中、右3名を除いた残り日孜毎(中山生)、濶八馬(中山生)、賀段志(山南生)段志毎(中山生)の4人中いずれかが刑死されたと思われるが、刑死されたのは中山生と山南生であることからすると、その内山南生は賀段志(山南生)しかいないので賀段志は当然に刑死されたであろうと考えられる。しかし残り中山生が何人処刑されたのか分からないが、『明實録』に帰国したという記録がない、日孜毎、濶八馬、段志毎も処刑されたと考えるのが妥当であろう。

まとめ

1 段志毎は洪武26年に入監したが、その時の入監者は彼一人であった。

2 賀段志(山南生)は処刑されたと考える。

3 帰国した記録のない中山生である日孜毎、濶八馬、段志毎等も処刑されたと考えられる。

4 仲原 阿波根の説に誤解を検証した。

以上、小生なりに結論を出してみた。諸兄にご批正を賜ることができたら幸甚に存じます。

[注1]仲原善忠は『官生小史』の作成要領を次の如く記している。「氏名の検出は、中山世譜、明史(列傳)、清史稿(列傳)を中軸とし、他の諸書を参考にした」と、洪武26年段志毎の備考欄で『明使』とあるのは『明史』の誤植と思われる。また、備考欄に記されている事件は、野口鐡郎も説くように明史以外に中国の史書、琉球の史書は傳えるところがない。以上の理由により「明史」に拠ったとしたのである。

[注2]日孜毎(中山生)、濶八馬(中山生)が明らかに洪武26年まで在監していたとの確証はないが、彼らと同にきた仁悦慈が洪武26年現在において在監しており、又洪武29年まで、官生の帰国のことが見えない。以上のことに拠って在監していたとしたのである。

[注3]もし賀段志が処刑されたとすれば、洪武26年11月壬寅朔、壬寅以後である。何故なら、その時までは賀段志は生存していたからである。


2021/09/12(日) アメリカ人溺死事件ーボード事件_2021/9/12(日)

アメリカ人溺死事件ーボード事件

1854年5月17日聖現寺
皆さん、那覇の泊港を知っていますね。近くに聖現寺という寺がありますが、そこは1854年に琉球に来たペリー一行の一部の人々が寝泊まりしたところだそうです。この聖現寺に吉里筑登之が走りこんできた。1854年5月17日の夕暮れ前であった。
吉里筑登之:アメリカ水兵3人が人家に入り込み酒を奪い取り呑んでで酔っ払い那覇の市で暴れております。

アメリカ小官:何、水兵が暴れているとな。すぐに迎えにいくことにするが、貴殿にお願いがあります。水兵を乗せる籠を準備してくださいませんか。

吉里筑登之は配下の役人に籠の手配させ、アメリカ小官とともに那覇へ赴いた。聖現寺から那覇へは歩いて行った。約一時間くらいだろうか、那覇の市へついた。道中、色々アメリカ人の噂をしているのを聞いていた。しかしそのことを一緒にに来たアメリカ小官にははなさないでいた。

那覇の市
吉里筑登之・アメリカ小官が那覇に着いた時、2人の水兵は酒に酔いつぶれて,市中にたおれこんでいた。しかし、もう一人の水兵はそこにはいなかった。アメリカ小官はそれに気づき、

アメリカ小官:もう一人はどうしたのですか。

吉里筑登之はドキッとした。ここに来る前に通行人が、アメリカーが三重城で溺死したそうだぞ、と言うのを聞いていたので、そのことを話そうか迷っていたからである。

吉里筑登之:ここに来る道中、通行人が噂をしているのですが、三重城で溺死したそうです。
アメリカ小官:何、溺死したしたというのか。どうしてそれを早く言わないのだ。よし、三重城とかいうところへ行こう。

酔っぱらっている2人の水兵は、籠にのせて配下の者に寺まで送らせ、吉里筑登之とアメリカ小官は三重城へおもむいた。



死体の発見(三重城)
場所 三重城

時刻 6時

登場人物

知念仁也
まつ宮平
まつ高江洲
にわぉ金城
かめ阿嘉


知念仁也 まつ宮平 まつ高江洲 にわぉ金城 かめ阿嘉5人が

楷船の縄掛けをするために三重城を通過した時だった。

「おい アレー あの白いのは何だろう?」何か白いものが海に漂っていた。

「何だか人みたいだねー。おいまつー お前飛び込んで引っ張ってこい」と言われまつ宮平が海に飛び込んで助け出した。

助けだされたのが「ウランだーだ。」と誰かが言うと「そうだ うれーウランだーだ」というが早いかすぐ口に出たのは「息はしてているか」だった。「息はしている。死んではない。番所に知らせよう」と番所へ届けようとして陸に上がろうとした時、周辺では大勢の人の人が集まっていた。その群衆の中に当時アメリカ人を尾行し役所へアメリカ人の行動様子を監視する役目を担うの追行人がいた。そこでその追行人に連絡したのである。

追行人が役場へ連絡した。連絡を受けた役所では吉里筑登之は天久寺に滞在している小官に連絡に行った。

天久寺・聖現寺
吉里筑登之:「水兵三人が酔って暴れまわっている。なんとかしてしてください」

アメリカ小官:「相わっかた。迎えに行くことにするが、貴殿にお願いがござる・水兵を乗せる籠を準備してくださらぬか」
吉里筑登之;「はい 承知仕る」

吉里筑登之は手下の者に籠を手配させ、アメリカ小官と一緒に那覇に赴いた。

那覇
那覇の市(まち)につくと水兵は酒に酔いつぶれていた。しかし、そこには三人いた筈だがもう一人の水兵はそこにはいなかった。

「もう一人はどうしたのじゃ?」と吉里筑登之は戸惑った。しかし周りの通行人や道行く人々がアメリカ人は死んだことをくち口にしゃべっていた。

それを聞いてので「よし 三重城へ行こう」

そこで酔いつぶれた二人を準備した2丁の籠にそれぞれ水兵を乗せ、配下の者に寺に送らせた。そしてもう1丁の籠にアメリカ小官を乗せ三重城に向かった。

三重城
三重城に着くと、溺れて倒れている水兵を見て

アメリカ小官が「今なら何とか手を施せば助かるかもしれないので、ベッテルハイム」を呼んでください」と言うので、ベッテルハイムを迎える為に護国寺に使いを使わせた。

「ベッテルハイムが参るまでは時間がかかるであろう」ということで溺れて元気を失っている水兵を戸で作った担架に乗せて護国寺に向かった。

護国寺
護国寺では、使者から事情を聴いてベッテルハイムが丁度出掛けようとしていた。丁度そこへ溺死した水兵を乗せた担架がきた。アメリカ小官はベッテルハイムに声をかけた。

アメリカ小官:「ベッテルハイム様 溺死したようだと琉球人は言うけど、今手を施せば何とかなるものと思い参りました。診ていただけないでしょうか」と言うが早いか、ベッテルハイムは担架に乗せられた水兵を見て「もはや絶命しておる。手を施してもどうしようもない。あきらめなさい」と言うのであった。その言葉を聞いて肩を落とし沈痛な表情にかわった。そのあと吉里筑登之とアメリカ小官はそれぞれベッテルハイムに礼を言って溺死した水兵を戸の担架にのせて聖現寺に連れて行った。聖現寺についてからアメリカ小官は、吉里筑登之に

聖現寺
アメリカ小官:「溺死した水兵の葬儀は明日執り行いたい」と言い、内に引っ込んだ。吉里筑登之も引き上げてて行った。

琉球の役人は、そこで役場に戻り上官に報告した。

翌日5月18日・聖現寺
聖現寺には、事件を聞きつけたジョーンズが本船からやってきた。琉球側では吉里筑登之を聖現寺へ遣わして、溺死した水兵の葬儀や棺などを琉球側で準備しましょうか、と伺いをたてたところ、いや棺は本船に準備してあるので結構です、ということであった。ジョーンズは総理官に渡してください、と文書を吉里筑登之に手渡した。

役場にかえってから先の文書を開いて見たが、英語で書かれているのでさっぱり意味がわからないのでベッテルハイムに漢文に訳させてもらったところ、ようやく意味が分かった。その文書の内容は大体次のようであった。「昨日の水兵ボードの溺死した事件について取り調べを行い、それを明日(19日)までに地方官を遣わして説明を行うようにしなさい」

5月19日 九ツ時分
国吉親方 総理官 板良敷里之子親雲上 吉里筑登之 溺死死体発見者5人 追行者等 昨日18日アメリカのジョンズから求めていた水兵ボード溺死事件の説明のため聖現寺へ赴いていった。アメリカ側は文書で報告するようにということであったが、口頭で説明をした。しかし、アメリカ側が対応したのは小官であったので、詳細については後でジョーンズが聖現寺に参るのでその時説明するようにしなさい、その時は連絡をするから、ということであったので一担は帰り、呼び出しがあるまで待機することになったのである。
その日の七ツ時分
ジョーンズ ベッテルハイム ボートン 水兵4人が泊へやって来た。先ほど待機するように申し上げましたがジョーンズが上陸しましたので、すぐ聖現寺まで来るようにしなさい、との使者がきた。そこで、先ほど参った国吉親方、総理官、板良敷里之子親雲上、吉里筑登之、死体発見者5人、追行者等は再度聖現寺へおもむいたのであった。

地方官が「一昨日の水兵ボード溺死事件は、まったく不幸ななことで何と申してよいかわかりません。そのことについては先ほどアメリカの小官達に口頭で事件の成り行きについては申し出たところですが今回は文書で事件の成り行きを書き記して参りました。目を通して下さいますように」と、言ってジョーンズに文書をを手渡した。地方官より文書を受けとったジョーンズは、その文書が読めないので同行してきたベッテルハイムに読んでください、と文書を渡した。

ベッテルハイムが、その文書を読み内容を伝えたが、ジョーンズの方からは琉球側へは何の質問もなかった。琉球側は、溺死した水兵が那覇の市に酔っているところを見た者、三重城の海中から救い上げた者達を連れてきたが、彼らは何の取り調べも行わなかった。ただジョーンズは私には取り調べる権限がないので取り調べはできないが、明日こちらの取り調べ官が上陸してここ聖現寺へ参りますので、その時連れて来てください、その時は地方官の同席なさったら良いだろう、と言いおいて では明日ということで、ボートに乗り、波之上でベッテルハイムを下ろし本船へ帰った。





5月19日朝 役場 総理官
19日朝 板良敷里之子親雲上 吉里筑登之 死体の発見者5人 国吉親方 総理官 追行人等水兵溺死事件の説明のため天久寺に赴く。アメリカ側は文書で報告するようにということであったが、口頭でその説明をした。しかし、アメリカ側は事件の詳細については乗頭が聖現寺へ参るがその時に説明するようにしたいということであった。一旦は帰り呼び出しあるまで待機することになった。



小官等 一出迎える。それぞれ挨拶を交わし寺に入る。その時総理官が国吉親方に文書を手渡し、それを乗頭へ渡す。

小官はそれを受ける

乗頭:事件の成り行きについて文書をもって来たのか。

総理官:文書は持参しなかったが、事件の成り行きについて口頭ででもし述べるようにと遣わされここへ参った。本来ならば地方官が参って直に乗頭の御船に参り、申し入れるべきでありますが、今日は両横様で乗頭様の船へは難しいので、私目がつかわされたのです。

小官:水兵を打ち殺した者が判明したか。

総理官:その件につきましては、乗頭様から文書をいただき、水兵を殺した者は誰だとの問い合わせがあり申したが地方官殿は笑っておられました。此の地の人が水兵を打ち殺した者はいません。その日アメリカ人水兵三人は那覇の家数か所に押し入り、その内の一か所から酒を探し出して、それをみんな呑みはなはだ正気を失い、その内二人は市中に倒れ、一人はあちこち走り歩くうちについに海原に落ちてしまった。それを船方の五人が見つけ出した時にはすでに命はなくなっていたということが調べて分かりましたので報告します。

小官:その水兵は何度も頭面を打たれたのか

総理官:そのことについては詳しいことは知らないけれども先に申した通り途中走り歩いてる途中転倒した時の疵だということです。

小官:その水兵は海中には、高い所から落ちたのか、あるいは浜辺より走って落ちたのか。

総理官:その場を見た者はいないが、那覇の市(まち)でアメリカ人水兵が酒に酔っているのを見た者、三重城の海中より水兵を救い出した者達はここに連れてまいりましたが、いかがいたしましようか。

小官:後で乗頭が上陸して詳細は伺うので、地方官殿は暫く帰っておられて結構です。乗頭が参り次第説明するようにするが良い。

八ツ時分帰る。

小官等も傳間船に乗り本船へ帰って行った。

5月19日 七ツ時分
乗頭 ベッテルハイム ボートン 水兵五人、伝間船に乗って漕いで来て天久寺に入り、そこで止宿之水兵を遣わして、地方官に直絡した。

そこで国吉親方は地方官に「乗頭が上陸しましたので、先ほどド待って居るように申し上げましたが。直ぐ参るように」とのことでございます。と連絡して天久寺拝殿に行く。

5月19日 天久寺拝殿
地方官:一昨日の水兵の変死事件は待ったく不幸中何と言って言いかわかりません。そのことについては、先ほど小官達に口頭で、この事件の成り行きを申し入れましたが、今回は文書に事件の成り行きを記して参りましたが、目を通してくださるようお願いします。

地方官より文書を受けたった乗頭は、その文書が読めないので、同行のベッテルハイムに読んでくれるとうにと、文書を手渡した。

ベッテルハイムが読みその内容を伝えたが、乗頭から琉球の役人への何の質問をしなかった。

通事:溺死した水兵が那覇の市(まち)で酒に酔っていたところを見た者と三重城で海より救いあげた人達を連れて参りましたが、どうしましょうか。

乗頭:こちらの方の取り調べ官が、明日そのもの達を取り調べるので、その時連れてきてください。

通事:乗頭様がその者達を対面して聞き取り下されば、事件の成り行きもきっとわかると思いますので、乗頭様方で聞いてみてはいかがでしょうか。

乗頭:いや 私たちの国ではそれぞれ職務が違うので私には取り調べをすることは出来申さぬ。明日その者達を連れて来るようにしなさい。その時には地方官も同席なさると都合が良いが、出席できないと申すか

地方官:私は公務が忙しいが、暇を見つけて参るようにしょう。

5月19日 日入り時分 帰る
乗頭等 伝間船に乗り波之上の浜でベッテルハイムをおろし、乗頭等は本船へ帰って行った。

その翌日 5月20日 四ツ時分
アメリカ人を乗せたボート1艘小官4人水兵7人唐人2人を乗せて泊に漕いでやって来た。その船にはベッテルハイムも乗っていた。

取り調べ官が上陸したので、先ほどの者を連れて来るようにということを琉球側へ連絡して来たので、またまた出掛けて行った。その時行ったのは先ほどと同じく国吉親方 総理官 板良敷里之子親雲上 死体発見者5人追行者等であった。

取り調べ官が上陸したので先ほどの者どもを連れてくるようにということを琉球の側へ連絡してきたので、またまた出掛けて行った。その時行ったのは先ほどと同じく国吉親方 総理官 板良敷里之子親雲上 死体発見者5人・溺死した水兵が那覇の市(まち)で酒で酔っているのを見た者・海から引き揚げた人と追行者達を連れて天久寺へ出掛けた。

天久寺ではまず知念という者が呼びだされ、ベッテルハイムからの取り調べがあった。

5月20日 天久寺
ベッテルハイム:アメリカ水兵を海中より引き上げた者か。

知念:そうです。

ベッテルハイム:アメリカ人水兵が溺死したという場所はどこだ。

知念:はい 三重城次矼というところでございます。

ベッテルハイム:あなたは水兵が海の中に落ちたのを見たのか。

知念:いや 見ませんでした。

ベッテルハイム:では貴方はどうしてその場所に行ってアメリカ水夫が溺れ死んだのを見たのだ。

知念:私たち 知念仁也 まつ宮平 まつ高江洲 にわぉ金城 かめ阿嘉は、楷船の縄掛けに行くため三重城のところを通ったところ海のそこから何か白いのを着た者が沈んでいるのを見て、ああもしかしてら、これはアメリカ人かも知れないと思い、一人が海中に飛び込ん伝間船に引き上げて見ると、もう息絶えておりました。

ベッテルハイム:では聞くが海の中に飛び込んで引き上げたのはその方か。

知念:いいえ 私ではありません。宮平という者が引き上げたのでございます。はい。

ベッテルハイム:アメリカ人水兵を発見した時刻はいつごろか。

知念:はい午後6時頃だったです。

ベッテルハイム:では発見した場所は橋よりどのくらい離れていたのだ。そして深さはどのくらいあったのじゃ。

知念:はい 橋からだいたい3m60cm(2間)ぐらいだったです。丁度満潮の中ごろでしたので、深さは2m40cmぐらいでした。

ベッテルハイム:その水兵が沈んでいたいたのは、真ん中か端っこのところかどちらであったか。

知念:はい 中央部でございました。

ベッテルハイムと知念のやり取りはアメリカ人小官が書き取りが済んだので、もう宜しいといわれ知念はその場を退去する。

知念に引き続き宮平 高江洲もひとりひとり知念と同じような質問を受けたが、それぞれの返答は知念と全く同じでそれぞれ食い違うところはなかった。

板良敷:残りの二人にも今までのように質問するのですか、あとのこりも今まで人と全く同じように答えておりますが、どうしますか。

ベッテルハイム:その二人は名を何という。

板良敷:金城 阿嘉 申す者にございます。

残り2人は名前のみ聞き取り調べへは行いませんでした。アメリカの小官はいままでのやり取りを書き取る。その後ベッテルハイムは地方官に向かって質問を始めた。

ベッテルハイム:地方官殿アメリカ人水兵が海に落ちるところを見た者あるいは知っている者はないかね。

地方官:それについては、いろいろとあっちこっち駈けずりまわり調べましたが、水兵が海に落ちるのを見た者はひとりもおりません。

ベッテルハイム:不思議なことじゃが、どうして溺死した水兵の頭面に傷があるんじゃろうか。

地方官:詳しいことは私に分からんが、きっと酔っていたのですから、転んだ時につけた傷ではないでしょうか。

ベッテルハイム:今度は吉里殿にお尋ね申す。地方官殿は下がってよろしい。(地方官すぐに下がる)聞くところによると、アメリカ水兵の溺死の事件は最初吉里殿より天久寺止宿の小官に連絡したというが、吉里殿は水兵が溺死したということは誰からきいたのだ。

吉里:私はその日泊に居りましたが、アメリカ人三人が那覇で酒に酔って人の家に垣を越して入り、門戸を破って暴れていると那覇の人から知らせがあり、私は急いで天久寺に参り止宿之小官に酒に酔って暴れている水兵三人を制止してくれるように申し入れ小官とともに、日が暮れるころ那覇へ行きました。そうしましたら水兵二人が那覇の市(まち)で酔っ払って地面にねころんでおりました。そこで右小官とともに天久寺へ送り届けようとしたときに、外の一人は海に落ちて溺れ死んでいると道を行く人達が言い言い合っているのを聞いたので若い小官に水兵が溺死したことを知らしてあげたのです。

ベッテルハイム:アメリカ水兵が溺死したということは、本当に那覇に来てから知ったのか。泊にいるとき知ったのではないか。

吉里:はい 私が泊にあるときは確かに水兵三人が酒に酔って暴れているということだけしか聞きませんでした。溺死のことについては知りませんでした。そして私は止宿の小官に知らせたのです。

そのことを

ベッテルハイム:三人共に酒を飲んでいたということを知っていたか。と聞いた。

吉里:はい 確かにその時に知りました。そして止宿の小官にも三人が酒に酔って暴れていますが制止してくれるように申し上げました。私が知らせた小官はあの方です(指をさして示す)お疑いならあのお方にお聞きになってください。



その時

ベッテルハイム:その時那覇の市(まち)で何か争いごとはなかったか。

と聞いたので、いままでわかってご存じの所に、その時アメリカ人が焼酎を奪い取って暴れまわっていたので、人々は恐れ逃げ回っていたので、どうして争いごとがあっただろうか。と答えたがベッテルハイムはくりかえしくりかえし同じことを聞いたが、琉球側は相もかわらぬ返答をこれまた繰り返した。

小官:アメリカ人水兵三人が呑んだ酒は買ったものか。

板良敷:さきに申し上げた通り人の家に押し入り家の人はびっくりして逃げたので家中探し回り奪い取ったものにござります。

小官:奪い取った酒の代金は支払ったのか。

板良敷:外の人の家に入り京銭3千文押しとったものの中から二百文を投げ置いたようでござります。

小官:して、〇〇京銭を押しとったところではかわりに銀を渡してているか。

板良敷:はい 蕃銭を投げおいたようでございます。

その日の取り調べはこれで終わった。アメリカ人の水死は琉球の役人に対して心配をを掛け申したなとあいさつをしたのですが板良敷が地方官に連絡して

次のように言った。

「アメリカ人の水兵は無理やり押しとって飲むものだからこのような色々事件も起こっておりますが向後はアメリカ人きっと取り締まりを厳しくしていただきたい。」

と申したら「琉球側も焼酎保管の方を厳重にして頂きたい」

このことはペリー提督よりも前に仰せつかっておりますが、こちらも取り締まりを厳しくしたい」と言い七ツ時分退散したのである。

ベッテルハイムの通訳によって アメリカの取り調べ官は事件のあらまし知り納得しているかのようだった。そしてこの事件ももうすぐ解決すると琉球の役人は思っていた。
ところが、6月7日 江戸に赴いたペリーが帰ってきて様相は一変したのである。
この事件はペリーが開国を要求しに江戸へ行っている間に起こった事件であった。ペリーはこの事件を聞き激怒して事件お真相を究明するように命令したのであった。そしてペリーの命を受けたアメリカ側の譒訳官 提督嫡子,小官2人が若狭町学校所にきて次の様なことをを言ってきたから問題が持ち上がったのである。

譒訳官 提督嫡子 小官2人が若狭町学校所へ来て次の様なことを言ったのである。

「我が国の医者がボードを解剖したが、ボードは酒を呑んだ形跡がなく、また頭に疵がある。これは何かで打たれたためできた物である。その後に溺死したのである。琉球人が今まで説明しているのはおかしい。このままではきっとペリー提督も納得しない筈だ。取り調べてきっと犯人を探し出して。引き渡すように。もし犯人を引き渡さいのであれば兵隊を引き連れて来るぞ。」

ボードは、酒に酔って溺死したのではない。琉球の人に殺されたのだ。だからすぐ犯人をう引き渡せ。引き渡さなかったら兵隊を引き連れてでも引き取るぞ、と脅しつけたのである。

その後、琉球側でとアメリカ側と何度か交渉がもたれたが、問題を解決するまでにはいかなっかった。そこで業を煮やしたペリーが自らこの事件解決のために乗り出して来るのである。

6月10日
総理官 久米村大夫 板良敷里之子親雲上等はペリー提督から呼ばれ、提督のいる船へ赴き、ペリーから次の様なことを言われた。

「前は貴国と我が国とは諍いが何もなく仲良しだった。日本とも『日米和親条約』を結び安心しておりました。ところが6月7日此の琉球に戻ってみると、わが国の水兵が殺害されたと聞き怒り心頭に達し、非常に面白くない。明日四ツ半(11日)時分まではきっと犯人を引き渡すように。もし約束を守らなければ那覇川前面へ軍艦を遣わして貴国の船の出入りを差し止めるぞ」と言われたのである。

琉球側では犯人の追求に乗り出して色々と調べたが、多くの人の取り調べを急には出来ないので日延べしたいと願いしたら12日の巳時半までは良いということであった。

犯人の引き渡す刻限の12日になって「明日(13日)巳の半時分にぺーリー提督は天久寺へ参るので総理官 布政官は天久寺(瀬聖現寺)へ赴き犯人を引き渡すようにとのペリーからの言付けがあった。13日に日延べされたのである。

いよいよ犯人を引き渡す日になったが、琉球側ではまだ取り調べが十分ではなかった。しかしこの上日延べするようにお願いしても聞き入れてもらえない。どうしようか、と苦悩していた。アメリカの兵隊はもう天久寺に来ている。もし刻限通りに犯人を引き渡さずにいれば、約束通り、ペリー提督の前で取り調べをしなければならなくなり、そうなればどのような扱いになるかも考えつかないでいた。



若狭町学校所
参将 譒訳官 提督嫡子 小官二人 唐人二人

六月十日 九ツ時分 参将 譒訳官 提督嫡子 小官二人 唐人二人が若狭町学校所まで入ってくる。それぞれ挨拶を交わしそれが済んで琉球側の役人が茶菓子酒肴のご馳走を出して接待しようとする。

「私たちは用事で参りました。終わらないうちご馳走をいただくことは出来ません。ご馳走は用事の後済んでからにしてください。」

譒訳官:「ペリー提督は今日上陸して参り総理官殿と面会の約束でございましたが、貴国の者が我が国の水兵を打ち殺し又天久寺の止宿者を連〇したのは、アメリカと琉球国とが仲良くなるというかんがえを捨てたものである。だから私は総理官に会いたくないと申し上げております。そこで私たちが遣わされ参りましたが水兵殺しの成り行きを詳しく説明願いたい」

板良敷:小さく柔弱な琉球の人々は今までかって大国の人々を傷つけたことは御座いません。また今まで問題になっておりますアメリカの水兵の溺死した事件については琉球の人が、水兵が海にに落ちて見た者はおりません。そのことは右の事件のことについては、貴国の者が天久寺において事件の成り行きについて取り調べになっております。その取り調べの様子は文書にも記載されておりますが、ぺりー提督にも伝達していただきたと思います。これは取り調べの写しです。どうかペリー提督にお渡しくださいませ」

(文書を付け乗頭に渡す。乗頭その文書を席で見てその後)

乗頭:「溺死した水兵をアメリカ国の医者が解剖して傷を見て言うには、その水兵は酒を呑んだ形跡は見えないと言う。この事件を決着するとなるとペリー提督も納得しないでしょう。」

板良敷:もし琉球の人がアメリカの水兵を打ち殺したのであれば身体に疵を負うはず。だのにその水兵には疵はないではないか。これからしても水兵は酒に酔って溺死したものと考えられます。

乗頭:疵はないというが、溺死した水兵は頭に疵がある。

板良敷:水兵の頭にある疵というのは、きっと酒に酔っていて転んだ時につけたものでしょう。もし今までの説明で納得しかねるのであれば、溺死した水兵、他の二人の水兵と外の一緒に酒を呑んでいるところを那覇の市(まち)で目撃したものがいますので、ここに呼び寄せ目の前で事件の成り行きを取り調べて下さい。

乗頭:そのことについて、ペリー提督に申し上げ相談いたすので、そこで待期しておいていただきたい。

そこで一応の話し合いは済んだ。琉球の人がペリー提督が・・・黒糖を所望しているというがそれを取り寄せましたがお受けください差し出すが提督が申した事が解決しない内は受け取ることはできない。それぞれ別れの挨拶を済まし、さきに乗ってきた伝間船に乗って本船へ帰って、その帰り際に

通訳官:明日ペリー提督は此処に参り取り調べるから総理官も参るように。

板良敷:アメリカ水兵が溺死した成り行きを見た者もないし、また殺した人も犯人を引き渡すことは出来ません。

乗頭:頭に疵がある。これは打たれたためにできたもので、そして溺死したものだ。

板良敷:その疵は転んだ時にに出来、また橋から落ちた時に出来たもので琉球の人が水兵を打ち殴りをしたものではありません。これらを良くお考え下さるようにお願い申し上げます。

乗頭:橋から落ちたのであれば疵は一か所に負う筈だ。頭の前と後ろに三か所の疵があるのは棒あるいは石ころで打たれたための疵にちがいない。

板良敷:転んだ時あるいはまた橋より落ちた時に二三度石に当たって負った疵かもしれないではないか。

そう言った時乗頭は怒りがこみあげて、語気をを強くした。

乗頭:きっと犯人を引き渡すように。もし引き渡さないのであれば兵隊を引き連れて此処にに参るぞ。そうなるとあなたたちは否応なく犯人を引き渡さなくてはならなくなるぞ。明日はペリー提督が上陸して取り調べる筈だ。

と言い残して暮れ時船に乗って波の上を経由してそこで唐人は降り、残りは本船へ帰って行った。

提督の乗船
総理官はペリー提督が会いたいので、久米大夫 板良敷里之子親雲上を引き連れ揃って提督の乗船へ参るようにとのことであったのでペリー提督の乗る船へ参ることになった。

ペリー提督と総理官の間では次の様なやり取りがあった。

ペリー提督:前は貴国と我が国とは諍いが何もなく仲良しであった。日本へも『日米和親条約』も結び、安心しておったところ、私は六月七日にこの此の琉球にもでって来たが、着いてみると、我が国の水兵が殺害されたと聞き怒り心頭に達し不安がござる。

総理官:そのことについては、取り調べておりますが、まだ解決いたしておりません。今日公館へ参り取り調べの様子を聞かされたが、なかなか込み入っておっていろいろ苦心して取り調べておりますれば、明日には解決できる見通しでございます。刑法構え布政官に申し合わせて那覇中を取り調べさせていますが、何しろ大勢の取り調べですので、容易には出来ないので、どうか もう少し待っていただけませんでしょうか。

ペリー提督:我が国の水兵が溺死したのは、日中のことであるから。人々の内には誰かは見ておるものがある筈だ。那覇だけのことであるから、きっとできる筈だ。犯人を早々に引き渡すように。

実は犯人は知っているなら、アメリカ側の役人に隠す必要はない。公正に取り調べたことを知らせて頂きたい。処罪の方法は貴国の法律の通りにやって構わない。わし達がアメリカがとやかく口はさむことはいたしませぬ。だから今日中には犯人をひきわたすようにしなさい。

総理官:前から申し上げていますように、水兵の溺死した様子を見た者もなく、また那覇はあちこちの村からいろいろな人が寄り集まるところではあるが、いずれは首里田舎までも取り調べいたしますが、それには時間がかかります。どうかもう少し日にちを延期してくださいますようお願いもうしあげます。

ペリー提督:今日までと申しておったが、では明日四ツ半時分まで待つことにしよう。明日まで待つのだから、その時約束を違わぬようにすること。いいですね。もしその約束を守らないと、那覇川口前面へ炮台を備えた火矢を持った兵隊を派遣して貴国の船に出入りをし仕留めるようにするぞ、きっと申しつけるぞ。

総理官:なるだけ約束の時刻までに申し入れの通り、犯人を引き渡すようにしたいとぞんじます。

溺死事件についての話が終わってのち、ぺリ−提督は琉球役人に誇らしく日本と和親条約を締結したことを誇らしく語り、その時に交わした漢文和文で書かれた二通を・・の金城に見せたということである。

そして八ツ時分 ペリー提督の船から帰ってきた。



提督乗船
久米村大夫 板良敷里之子親雲上

ペリー提督との約束の日がきた。その日の四ツ時分 総理官は久米村大夫 板良敷里之子親雲上を陳者として提督乗船へ遣わした。

板良敷:アメリカ水兵の溺死したことについては夜中に懸命に取り調べしましたが、多くの人の取り調べであるために、急には取り調べることができず、もう少し日を延期するお願いに総理官に遣わされてきましたが、宜しくペリー提督へとりついで願いたい。

アメリカ小官:いや それは出来ませぬ。きっと今日の四ツ半までには取り調べて犯人を引き渡すように。

板良敷:私どもは少しも油断しませんでした。夜通し町中を取り調べたが約束の日時に差し迫り急いで取り調べています。もし取り調べが済み解決したら、ペリー提督が直々に取り調べの場においで下さり、ご自分で直々に見るようにいたさせます。

そのことをアメリカの小官はペリー提督み取次日延べを許されることになった。

アメリカ小官:ペリー提督は日時を延べることを許すそうだ。ところで。我々アメリカ小官も見てもよいか。

板良敷:ようございます。

久米村大夫 板良敷 用事を済ませ 九ツ時分提督の乗船より帰ってきた。

若狭学校所
参将 譒訳官 唐人一人 水主五人 総理官 布政官 大夫 板良敷

総理官 布政官のいる前で取り調べが、アメリカ水兵が溺死した事件取り調べておる最中、アメリカ人参将 譒訳官 唐人一人 水主五人が入ってきた。

参将:溺死した水兵のことについての取り調べているか。

総理官:その通り

参将:見て取り調べているだろうことはわかるが、言葉はわからぬ。その扱い方からすると犯人が出てきたように見受けられるがどうだろう。

総理官:地方官の申し出るところによると、アメリカ水兵を琉球の人が傷害した者もなく、また溺死するところを見たという者もいない、ということであった。そこで昨日より本官はじめ布政官が出向いて取り調べた結果次のようなことがわかった。

溺死した水兵は天久寺止宿の水兵と共に人家より酒を探りて見つけ出して呑んで酔っ払い、その挙句溺死した水兵は人家に押し入り、婦人をいたずらしたのである。その婦人が泣き叫んでいるのを聞きつけて隣からあるいは通行人が寄り集まってきた。その内の一人が婦人に抱きついている水兵を引き下ろし追っ払たところ屋敷の外に集まっていた多くの人達が石を打ちつけたようである。恥じて逃げまどった水兵は海について溺死したようである。婦人がいたずらされるということは、女の人は甚だ恥ずかしいと思うものなので隠しておいたため、また地方官の取り調べが不足であったため、事件の成り行きが仲々つかめないでいたのです。しかし、本官が眼の前で取り調べたら今の述べたような事実がわっかたのです。

参将:水兵が琉球の婦人を辱めたということは申してないのは困ったことだ。その上、首里那覇はわずかの距離だから総理官に早く知らせた筈なのに、一か月もそのことは総理官には・・・知らなかったという。まことにもって信じ難いことである。

総理官:総理官は国中の仕事がいっぱいあって、各役所の任務仕事についてはその役所からの報告があるまではわかり申さぬ。先の水兵の溺死事件については何の報告もされず知らなかった。

参将:水兵に辱められた婦人はどこのなにがしだ。どのような仕事をして生活しているのだ。そしてその家は婦人が何人おるのだ。

総理官:那覇近辺の者で、平日は機織りなどをして暮らしております。その家には婦人が一人しかおりません。

参将:水兵が婦人を辱めている時に、立ち寄った者というのはその婦人の夫か

総理官:いや その婦人の夫は早くに死んで今はおりません。

参将:では 早く取り調べの上、犯人を引き渡すように。

総理官:貴殿等が見ての通り多人数を取り調べておりますので、ここ二三日内には取り調べが終わりそうにもございません。どうか貴殿等がペリー提督へ日延べをしてくれるようお取りはかり願いたい。

このようなやり取りがあった後、アメリカ人参将は琉球とアメリカとの通商和親条約については、この溺死事件が解決した後、別紙に書いてある通りに結びたいと思っているので、御覧になり検討しておくようにと言い残して八ツ時分、若狭町学校所を出て護国寺に赴き、まもなく乗ってきたボートに乗って本船に帰っていった。

6月12日 若狭町学校所
六月十二日七ツ時分 アメリカのボート一艘が波之上下浜にたどり着いた。参将 譒訳官 ペリー提督嫡子の四人であった。彼らは浜に降りると若狭町学校所へ向かって行った。彼らがそこに着くと丁度そのころ若狭町学校所では総理官 布政官もいた。

譒訳官:アメリカ人水夫溺死したことについて、疵を付けた者の犯人を引き渡すように前に申し上げておいたが、その引き渡しの約束の時は昨日であった。(11日) しかし取り調べ中であることは昨日、私達は眼の前で見、そして貴国の総理官から日延べをするようにとのこともあって、そのことをペリー提督に申し上げたら、提督は今日まで刻限を延期してもさしつかえない、ということであった。しかし明日(13日)の巳の時半にはペリー提督は天久寺へ参るので、総理官 布政官は天久寺へ赴き犯人を引き渡すように。もっとも兵隊は今日からその寺に駐留させておく、ということだ。私達はそのことをペリー提督から申しつかってきたので、知らせておく。

総理官:アメリカ水兵溺死した事件について取り調べてた結果、次のようなことが分りましたので一応報告しておきましょう。

六人は浜辺まで石ころを投げながら、水兵を追いかけました、ということが取り調べたら判明いたしました。しかし、なお追及してみますと溺死した場所のすぐ前までは追って行ったが現場まではは行ってないと言い、六人を取り調べていますと、六人とも食い違いがあってまだ十分な取り調べは出来ていませんでしたので、日延べして許されたので再度六人を十分に調べたい。

参将:そして六人が石を水兵に投げて当てたのか。

総理官:そのことについては、まだ十分にはわからない。

参将:多人数を取り調べては急に取り調べは出来ないのであれば、水兵を追っ払ったと申している者どもを引き渡すように。

総理官:婦人の辱められるということは、その婦人が可哀そうにと思いますと人々は仲々証人になりたがらないものです。しかし石ころを投げた者達はいずれ必ずや明らかになるでしょう。犯人を引き渡し罪を与えずにおいては安心できませんので貴殿には眼前に思われた通り、私どもは油断しているわけでもなく一生懸命になって取り調べをしています。どうかこのところを理解下さり提督へお願い申し上げたら、日延べを許してもらいました。明日(13日)巳の時分半までに取り調べができず引き渡しができないようになるならば、・・・罪人共を引き連れて天久寺へ参りペリー提督の前で取り調べをしたいと思います。





いよいよ犯人を引き渡す日になったが、琉球側ではまだ取り調べが十分ではなかった。しかしこの上日延べするようにお願いしても聞き入れてもらえない。どうしようかと色々苦労をしていた。アメリカの兵隊はもう天久寺に来ている。もし刻限通りに犯人を引き渡さずにいれば、約束通り、ペリー提督の前で取り調べをするようになり、そしてどのような扱いになるかも考えつかないでいた。そこで今まで取り調べた者の内、かま渡慶次は石をアメリカ人水兵の頭に当て、国吉秀才 屋良にや 新垣にや 知念にや まつ金城の五人はアメリカ人水兵を追っかけて石を投げたが、水兵には当たらな当たらなっかったと言い、それぞれ皆本当な犯人ではないが、彼らを犯人として引き渡すことに決定したのであった。渡慶次は八重山に一世の島流しも刑 国吉以下五人は宮古島へ八年の刑にする、としたのである。

約束の刻限は刻々と迫っていた。ペリーがもうくるだろうか。

五ツ時分 琉球側では意を決してペリーの船へ行った。

水兵溺死事件の犯人の取り調べは終わったので、その犯人の引き渡しは天久寺において行う筈であるが総理官 布政官が船元へ行って事件の成り行きを説明したい旨を伝えるためであった。

ペリーはそれを許した。一担 四ツ時分 総理官 布政官は帰った。それからまた、その日の九ツ時分 アメリカ人水兵溺死事件の成り行きを説明するために、ペリーの船に向かった。その時犯人の渡慶次も一緒に引き連れていた。それは犯人の一人は本船に連れて行かなければペリーはその事件について納得しないだろうというアメリカ小官の言葉に従ったためであった。ペリーの船に着くと、参将が伝間に降りて迎えてくれた。直ちに提督の部屋に案内された。

6月13日 提督乗船 ペリーの船
総理官 布政官 大夫 板良敷里之子親雲上 渡慶次

提督:罪人を私の前に引き出すように。

総理官 事件を取り調べた書付け文書と問付書 科書を提督に渡し、その後罪人渡慶次を提督の前へ引き出した。

提督:琉球の法律では、人を殺した者は全て同罪の筈であるが、水兵がある疵はこの者の投げたものが当てたわけではなく、外にも四五人いるようであるので、罪一等を許すわけもあるので琉球の法律の通り処罰するように。また、ここにいる罪人は琉球役人にのもとへ帰して差し支えない。

渡慶次は琉球の法律が処罰することになり、琉球の方へ帰された。

提督:婦人を辱めたのはすごく極悪にあたる。もし水兵が生きていればその罪は軽くない筈であるが死んでしまってからはどうしようもなく処罰しようもないが、酒に酔った二人は宝互担船で取り調べ厳重に処分したい。

これこそ公平で友好の証であると思う。

提督:で、罪人はいつ頃島流しにするのだ。

総理官:順風次第、島流しにしたいとおもいます。ハイ

提督:それでは八重山島へ流刑との証拠となる文書を付明日、印押して渡すようにするがよい。

これでこのアメリカ水兵溺死事件は決着を見た。その後茶菓子・酒をご馳走になり八ツ時分帰った。

時1854年旧暦6月13日のことであった。

帰りも疲れただろうとペリーの準備したアメリカのボートに乗って帰った。

1854年6月17日 琉米修好条約に調印

1854年6月23日 ペリー那覇出港ーベッテルハイムも同乗して琉球をさる。

2020/07/02(木) 2020-07-02 《球陽琉球に雪が降る》

*2021/8/25*  《球陽琉球に雪が降る》


太陽がギラギラと輝き蝉がミーンミーンと五月蠅く鳴いていた1855年のある日のことである。とあるがガジマル木で子供たちが木登りをしている。そこへ歳のころ7〜80歳にもなろうとする顎髭を蓄えた物知りお爺さんさんがやって来た。お爺さんがやって来たので、子どもたちはお爺さんから話を聞きたいとせがんだ。

お爺さんがどっこいしょと木の根元に腰をおろすともう子供たちははお爺さんのの前に座り込んで、お爺さんから話を聞こうと目を輝かせていた。

わらびんちゃー:お爺さん面白い話を聞かせて。

お爺さん:昨日話したからもう話するのはないが、どうしますかね。

わらびんちゃー:なんでもいいよ。面白い話をしてよ。お願いします。

お爺さんはわらびんちゃーにせがまれたので嬉しそうな笑顔を浮かべながら

お爺さん:それではこの琉球にに降った雪の話をしましょう。あなたたちは雪を見たことがあるかね。

というとわらんちゃーを見回しました。わらびんちゃーは胸弾ませ眼はきらきらと輝いていました。お爺さんは嬉しくなりその話を始めました。

お爺さん:ないだろうな。私も雪を見たことはない。しかしな、雪は知っているぞ。それは琉歌に『梅でんすぃ雪に積みらりて後どぅ 匂いましゅる浮世でぃむぬ』と雪が詠われ、また『四季口説』にも『冬はあられの音そえて、軒端の梅の初花の、色香も深く見てあかぬ、花か雪かといかで見分けん、雪の降る枝に咲くやこの花』と雪が詠われているぞ。ところで、あなたたちはこの琉球に雪が降ったと言うのを信じますか。

と言うとわらびんちゃーを見回した。わらびんちゃーはお爺さんをの顔をじーっと見ている。わらびんちゃーの怪訝そうな表情を見て取ったお爺さんは、話続けた。

お爺さん:雪といういうものは、この琉球では、日本旅、あるいは唐旅をした者たちが、そこで見たあるいは聞いた雪を琉歌にしたもだけにしか見られないと思っていたのだ。確か今から10年ぐらい前のことであるが、人の噂でが北谷間切に雪が降ったということはきいたことはあったが、霰か雹かが降ったのだぐらいにしか思ってなかったんだよ。しかしわたしは勉強が好きで昔ののことを色々と調べたんだよ。そしたら有りましたありました。琉歌以外にね。それが北谷間切で雪が降ったという噂話も本当だったんだろうと思ったんだよ。

お爺さんはそこで腰からきざみたばこを取り出して一服しようとした時突然熱心ににお爺さんの話を聞いていた子が

「お爺さん、私にはこの暑い此処琉球に雪が降ったとはどうしても納得できません。何か証拠となるようなものはありますか。」と聞いてきた。

お爺さん:あるんだよ。証拠が有るんだ。ちゃんとした証拠が有るんだよ。

さるでぃきやーわらび:その証拠とはなんですか。

お爺さん:うん、いったーがー見ることは出来ないが琉球には『球陽』という琉球にで起こった色々なことを記録したものがあるんだが、それに載っているんだよ。

でぃきやーわらび:お爺さんその『球陽』にはどいう風に書かれているのですか。

お爺さんはこのわらびに先ほどから疑問を素直に出すでぃきやーだからこの子にはもう少し具体的に詳しく話さなけらば納得しないだろうなと思った。最初は琉球にも雪が降ったことがあるよということだけを話すだけに止めようとおもったが、でぃきやーの熱心に感心した。そこで詳しく話始めました。

お爺さん:そうか詳しく聞きたいのか。ではもう少し話してあげるから、聞き逃しのないように注意して聴くんだよ。わかりましたね。『球陽』を調べると1774年正月27日に久米島に雪が降ったということが書かれていますが、これが琉球で最初の記録なのである。それによると久米島仲里村ででは正月27日から天気が悪くなり雨が降り続き、28日に辰刻というから午前8時頃になって雪交じりの雨に変わったが、降りやんで草木の葉を見るとジャーガル土のようになって枯れた、と言うことが記されていた。

でぃきやーわらび:久米島に降ったことはわかりました。それでは久米島以外は記録はあったのですか。

お爺さん:あるとも、あるとも。その次には1815年12月9日に伊平屋島に雪雹が降ったとあるんだよ。その時は雪が7cmほど積もったようだよ。そのため植えた芋は全部腐れてしまったという。まだまだあるぞ。伊平屋島に降った翌日というから1815年12月10日にまたまた久米島に降ったという記録がありますね。これが琉球に雪が降った『球陽』の3番目の記録だよ。その時も伊平屋と同じように約3僂阿蕕い寮磴積もり かずら 稲の苗の外たくさんの農作物が枯れて大きな被害だったそうだよ。それから4番目として沖縄本島南部の大里 南風原 東風平 佐敷 真和志 小禄 兼城 高嶺 玉城 摩文仁 豊見城 真壁に降ったという1843年2月の記録がある。まだあるよ。それからね5番目に当たるが、つい最近のことでといっても10年ごろ前のことであるが。北谷間切にも雪が降ったんだよ。さっきも言ったが人から聞いたんたんだよ。わしは今までこの暑い琉球に雪が降ったことは信じていなかったが今は本当に降ったんだなと思うよ。どうだねわらんちゃーこれでも信じられんかね。

わらんちゃーはお爺さんの話を聞いて何か不思議であった。蝉の鳴き声はまだ五月蠅かった。太陽はまだかんかんと照り付けていた。この暑い琉球に雪が降ったという。最初わらんちゃーはお爺さんの話を聞いても、もしかしたら本当ににこの琉球にもに雪が降ったんだと思うようになっていた。そして10年前というと自分たちが生まれたころのことなのだということを。もしかしたら誰かから聞けるかもししれないなー、おとーにきいてみよう。と考えているようであった。かんかん照り照り付けていた太陽に雲が掛かり少し日差しが弱くなっていた。その時一人のわらびが立って次の様に言った。

できぃやーわらばー:お爺さん 私はお爺さんの話を聞いてだんだんこの暑い琉球ににも雪が降ったことがあるかもしれないなと思うようになってきました。しかし、私が外のどぅしぐわぁに話したら全部が全部納得して信じてくれるかどうか心配です。だから他人に話しても納得して信じて貰えるようにもう少し詳しく知りたいのですが、『球陽』『琉歌』以外の方法で調べるものを教えてくださいませんか。

お爺さん:おうそうか。信ずるようになったか。オジーは大変うれしぞ。ところでお前は仲々賢いねーじんぶんもちだねー感心したぞ。しかしこれで話を終わろうと思っている。わしがここで話しても良いのであるがこの後はおぬしらが自分で調べた方がいいと思うよ。

できぃやーわらばー:お爺さんからもう少し詳しく聞きたかったのに後は自分たちで調べなさいとは、お爺さんもちょっと意地悪だと思います。しょうがないから調べる手がかり方法などを教えてくださいませんか。お願いします。

太陽がまた顔を雲から出し輝きました。そして暑くなった。

お爺さん:そうか オジーは意地悪か。そおじゃ おじーは意地悪だと言うとハッハハッハと大笑いして続けた。

お爺さん:そうだな 手がかりになるであろうから『組踊』に雪払いというのがあるので調べるといいだろう。それから『琉歌』にも雪を詠ったものがいくつかあるからそれらを全部集めるといいだろう。次にこいつは難解中の難解なものだが『おもろそうし』という奴がある。これは今のお主等には意味が分からないかもしれないが、それでも調べるときっと為になるだろう。それから鶴についても調べるといいよ。鶴については必ず調べた方がいいよ。鶴という鳥は寒い所に住んでいるんだよ。鶴がいるところはは寒いというわけだよ。もし琉球に鶴がいたらどうだろうね。

できぃやーわらばー:鶴が琉球にいるとしたらこの琉球が寒かったということがかんがえられます。

お爺さん:そうだ だから鶴のことを調べた方がいいよといったのだ。

わらばー:鶴以外にもそいうことがわかるものがあるんでんですか。

お爺さん:そうだね。草木なども調べるといいね。

と、その時突然大きな声で「お爺さん」という者があった。今まではただじーっお爺さんーや他人の言うことを聞いてばかりでおとなしかった子だった。

おとなしいわらばー:お爺さん 私は雪を見たことがないので、それってどいうものですか。

お爺さん:あ々そんなことか。わしは何ごとかとおもったぞ。雪を見たことはないなら、どいうものかわかりっこないよね。よーし、ではお主に聞くが雨はわかるね、ほら空から降るあの雨だよ。

おとなしいわらばーが頷くのををみてさらに続けて言った。

お爺さん:雪というものは雨みたいに空から降ってくる雨と同じだが、雨とはちがうぞ。そうだな、とてもとても小さな粒が集まって米粒ぐらいになってサラサラしたものが、寒い時に天から降ってくるものだよ。それが解けると水になるそうだ。その雪について調べてみるのもいいね。雪はどういう時に降りどこで降るのかを調べるのもいいね。何しろわしも雪は見たことがないのだよ。お主たちが大きくなって、唐旅や大和旅ができるようになったら見ることも調べることももできるだろう。

できぃやーわらばー:私は大和旅したことのある人から聞いたことがあるんですが、雪が降ると草とか花とかは枯れると言うのですが本当ですか。

お爺さん:そうらしいぞ。雪が降ると農作物もつくれなくなるそうだよ。伊平屋 久米島で雪が降った時には植えた稲や稲の苗が枯れたというが本当に雪が降ったために枯れたり或いは腐ったりしたと思うんだ。わしは。

できぃやーわらばー:もしも琉球に雪が降ったとしたら、農作物が枯れて生活するのに困っただろうと思います。だからお爺さんが『球陽』に雪が降った記録があるとおっしゃっていましたが、その時に雪が降ったとされる地域は大変困ったと思います。私はその時のその地域の様子を調べればきっと、琉球も雪が降ったかどうかの証拠を探すことができるとおもいます。

お爺さん:なるほどね、雪が降ったら農作物が腐るのは生活に困る。その時その地域での生活に困ってらかどうか調べそうして困っていたのかを考えようという訳だね。いい考え方だと思うがこれをどいう風に調べようかということだね。

できぃやーわらばー:はい さっき『球陽』に載っている話をしてくれたじゃありませんか。きっと『球陽』の中にそのような事例があると思います。だから『球陽』について調べたらいいかとおもいます。

お爺さん:そうだね。もしかしたら『球陽』中にお主がいう事例の記録がされているかも知れませんね。だが『球陽』はお前たちにはまだ読めないよ。難しいよ。もう少し学問に励んでからそれを調べて見るのもいいね。ああいい所にことにきがついたね。だが『球陽』以外に琉球のことを記録したものがあるからね。それか聞くところによると、西洋というところには色々科学が発達しているらしいから、西洋の科学も勉強すると雪について何か面白い発見があるかもしれなしよ。

と言って、立ち上がった。そして「今日の話はうっぴまでぃやくとぅまたやー」と言いつつ杖をついて帰って行った。蝉は五月蠅く泣いていた。わびんちゃーは「明日も話聞かせてくださいね」と見送った。それから木登りを先ほどと同じように遊び興ひた。お爺さんはとある坂の方まで来ると振り返りわらびらんちゃーを振り返り手をふっていた。わびんちゃーは木の上でてをを振りながらあちゃー遊びましょうと答えた。お爺さんは満足そうに、また杖をつきはじめた。

1856年のとある夏のことであった。