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(agijimaの日記)

2021/09/17(金) 女官生姑魯妹

○女官生姑魯妹

「琉球入学見聞録」巻三、官生(病故附)の項で藩相は姑魯妹について「姑魯妹、中山國人、入学之年闕(諸録誤以姑魯妹、爲官生、荒誕殊甚」と記し、汪楫・徐葆光・周煌の各々の使録で姑魯妹を女官生としているが、それは荒誕殊に甚しいものであり姑魯妹は女官生ではない、と諸録を批判している。一体、姑魯妹は汪楫・徐葆光・周煌等がいうように女官生だったのだろうか、それとも藩相が批判しているように女官生ではなかったのだろうか。そのこと及びその入監年を考察するのが本稿の趣旨である。
先ずはじめに、沖縄の先学は姑魯妹についてどのような見解をしているかを見ることにする。「沖縄一千年史」で真境名安興は次のように書いている。
『明史に「廿九年春使を遣はして来貢す。山南生の國學に肄ふ者歸省す。其冬復來る。中山亦塞
マ マ
官の子二人、及び女官生姑魯二人先後して來り業を肄ふ。其の華風を感慕すること此の如し。」とありて、亦女官生のことをいへるも、支那清朝の琉球官學教習藩相の著はせる琉球入学見聞録(巻三)を見るに「姑魯妹中山國の人、入學の年闕くとあり、下に諸録誤って姑魯妹を以て女官生となす荒誕殊に甚だし」として之を否定せり。蓋し或は然らん』と。
真境名安興は藩相の姑魯妹女官生否定説に「蓋し或は然らん」と同調する見解を示しながらも、完全には否定はしていないようである。沖縄の先学達の中で姑魯妹についての評価見解をしたのはこの真境名安興が最初であるが、真境名安興
の評価は推量の域を超えてはいない。
ところが、真境名安興より後の歴史研究者である仲原善忠が姑魯妹についての見解をその著作である「官生小史」で姑魯妹の入監年を洪武三十一
ママ
年と断定した上さらに『「明史」「中山沿革史」等女子ト誤ル。「入学見聞録」ソノ他ハ否定ス』と記し、姑魯妹を女官生とする説をほぼ完全に否定し、且つ真境名安興が明らかにしなかった入監年を三十一年としている。
真境名安興・仲原善忠よりさらに下って最近の研究者である阿波根朝松の「琉球育英史」に至ると、姑魯妹が女官生であるという説を完全に否定し、おまけに、妹は音借であるとする見解まで附するようになるのである。
以上、代表的な沖縄の官生の歴史を研究した歴史家の見解を見たが、姑魯妹についての沖縄での最初の評価者である真境名安興は姑魯妹を女官生ではないかもしれないとの推定の段階の見解を示したが、時代が下って、後の研究者である仲原善忠・阿波根朝松の時代になると、女官生ではないと断定的あるいは完全に姑魯妹女官生説を否定し、その見解は変化してきている。最近(昭和六十二年現在)はほぼ完全に阿波根朝松の見解が流布しているようである。
では、藩相を起点とした阿波根朝松の代に至って完璧に定着した観のある姑魯妹女官生否定説は、ほんとうに正当な見解なのであろうか。姑魯妹が女でなかったという評価は正しいのだろうか。
沖縄における研究者が、姑魯妹が女官生ではないとしたのは藩相の「琉球入学見聞録」の記述をその根拠にしたものである。そして、姑魯妹が女官生であるという根拠になるものもまた中国側の史書・史料である。従って、姑魯妹が女官生であるのか否かを考察するには中国側の史料の検討をする必要があろう。
ところで、姑魯妹について記した中国側の史料には「明実録」「野獲編・琉球女入学」「中山沿革志」「中山傳信録」「琉球國志略」「明史稿」
「古今圖書集成(方輿彙編裔典第一百巻琉球部)」「明史」「續文献通考」「琉球入学見聞録」等がある。一応、参考までに、その「資料」を載せて置く。
 嵬声堆拭
洪武三十一年三月戊申朔
(戊申)、琉球國中山王察度、遣其臣亞蘭匏、押
撤都結致・毎歩結致・撤都奴侍、貢馬及黄胡椒等物、其世子武寧、貢如之、先是、其國遣女官生姑魯妹、在京讀書、至是、謝恩來貢、
◆嵬邀擁圈廖蔑圧綵入学)
洪武二十九年、琉球國入貢、先是、其國山南王
ママ ママ
遣其姓三五郎等及寨官之子麻著里等入大學、既三
年歸省、至是、復與貢使善佳古耶等來、乞仍入大學許之、至三十一年、其國中山王察度。遣其臣亞蘭匏等、貢馬及方物、先是、其國遣女官姑魯妹、在京讀書、至是、來謝恩、因而入貢來朝、外國如朝鮮號知詩書者、間游國學、或至登第、然未聞婦人、亦來中國誦向慕華風、至此、真史策未見
「中山沿革志」
三十一年、王遣亞蘭匏等、貢馬及硫黄、世子武寧貢如之、女官生姑魯妹偕入謝恩、以昔常在京讀書也、太祖賜鈔有差・・・・
ぁ崔羯角信録」
三十一年、王遣亞蘭匏等、貢馬及硫黄、世子武寧貢如之、女官生姑魯妹偕入謝恩、以昔常在京讀
書也、太祖賜鈔有差
ァ嵶圧縱∋嵶」
三十一年、王遣亞蘭匏等、貢馬及硫黄、世子武
寧貢如之、女官生姑魯妹偕入謝恩、以昔常在京讀
書也、三月、太祖命以冠帯賜王、並賜臣下冠服。
Α嵬聖帽董
山北王怕尼芝已卒、其嗣攀安知、二十九年遣使來貢、令山南生肄國學者歸省、其冬、復來、中山亦遣寨官子二人、及女官生姑魯妹二人、先後來肄業、其感慕華風如此
А峺添T書集成」
洪武二十九年、琉球入貢、遣其國人及女姑入國學肄業。
按明外史琉球傳、洪武二十九年春、山北王遣使來貢、令山南生肄國學者歸省、其冬、復來、中山亦遣寨官子二人、及女官生姑魯妹二人、先後來肄業、其感慕華風如此
─嵬聖法
山北王怕尼芝已卒、其嗣攀安知、二十九年春遣使來貢、令山南生肄國學者歸省、其冬、復來、中山亦遣寨官子二人、及女官生姑魯妹二人、先後來肄業、其感慕華風如此
「續文献通考」
二十九年春、令山南生肄國學者歸省、冬復來、中山亦遣寨官子二人、及女官生姑魯妹二人、先後來肄業、其感慕華風如此
「琉球入学見聞録」
姑魯妹、中山國人、入学之年闕(諸録誤以姑魯妹爲女官生、荒誕殊甚)
さて、右の中國側史料に於ける姑魯妹の記述内容を分類すると、(一)明実録系、(二)明史稿系、(三)野獲編系、(四)琉球入学見聞録系の四つに大別出来るようである。
明実録系とは「明実録」「中山沿革志」「中山傳信録」「琉球國志略」等の系列の史料群で、その記述の特徴は、姑魯妹を女官生であると明確に規定してはいるものの、その入監年は記さず、先に在京読書した恩を謝するために洪武三十一年に來京したとする点にある。
明史稿系とは「明史稿」「古今圖書集成」「明史」「續文献通考」等の系列の史料群で、その記述の特徴は、姑魯妹を女官生であると明確に規定し且つ入監年を洪武二十九年としている点にある。
野獲編系とは、「野獲編」で、その記述の特徴は、女官生の存在を明史稿系の如く記述してはいるが、それが真実であるか否かを「真史策」で確認できないとして懐疑的に捉えているが否定はしていない点にある。
琉球入学見聞録系とは「琉球入学見聞録」で、その記述の特徴は姑魯妹を女官生であることを完全に否定し、入監年は「入學之年闕」として不明としている点にある。
右の中國側の史料に於ける姑魯妹の記述の系譜を図示すると次の如くになる。
姑魯妹 女官生であることを肯定 明実録系 「明実録」「中山傳信録」「琉球
國志略」(入監年の明記なく、三
十一年に在京讀書した恩を謝するた
めに來京したことを記す。)
明史稿系 「明史稿」「古今圖書集成」「明
史」「續文献通考」(入監年を洪武
二十九年とする)
女官生を懐疑的に捉える 野獲編系 「野獲編」(姑魯妹についての記述
及び入監年の記述は明実録系と同じ
女官生であることを否定 琉球入学見聞録系 「琉球入学見聞録」(「入
監之年闕」とする)  中国側の史料を見ると姑魯妹女官生肯定説の起点となるものが「明実録」で、女官生否定説の起点にあるものが「琉球入学見聞録」が唯一のものであることが分る。従って、姑魯妹が女官生であるか否かは「明実録」「琉球入学見聞録」のいずれの記述を信じ採用するかを検討することによって明らかにされるだろう。以下これを考察してみたい。
「明実録」について和田久徳は「沖縄大百科」で次のように記している。
「中央地方の諸官庁の記録類を主材料にし、根 本資料にもとづいて記述されているため『明実 録』は明朝に関する歴史研究にとっても重要な 史料である。」と。
この重要な史料でる「明実録」にももしかしたら誤謬はあるこも知れない。もし、仮に誤謬があるのであれば当然重要な史料であっても訂正されなければならないだろう。しかし、「明実録」は根本資料によって記述された史料価値の極めて高いものであるだけに、その記載の内容を否定・論駁するには、それに相当する史料価値の高い史料を引用活用して論理的に考察して訂正すべきであろう。もし、論理的な考証に基づいた論駁がなければ、「明実録」に記載された記述を妥当なものとして採用すべきである、と考える。
しからば、「琉球入学見聞録」の著者藩相は、姑魯妹についての「明実録」の記述を論理的に考証し、その記述内容を論駁しているかというと、そうではないのである。「明実録」に匹敵する史料を駆使して論理的に考証して論駁する手続をすることなく、ただ「姑魯妹、中山國人、入學之年闕(諸録以姑魯妹爲女官生、荒誕殊甚)」としているのみである。この藩相の記述は「明実録」記載の姑魯妹女官生肯定説を覆し得るような論理的考証はなく、非論理的な推量の域を出ない見解を披瀝したものであり、「明実録」女官生肯定説を覆し得たとはいえない。従って、「明実録」記載の姑魯妹女官生肯定説を妥当な見解であるとみるべきで、藩相の姑魯妹女官生否定説は棄却されるべきであると考える。
藩相を起点とし、阿波根朝松の代に至って完璧に定着した観のある姑魯妹女官生否定説は、藩相の説が否定棄却されたのであるから、藩相の説を根拠にして導引された沖縄の歴史家達の説く姑魯妹は女ではないという評価は当を得たものとはいい難く、次のように修正されるべきであろう。
『姑魯妹は「明実録」に女官生であると明記されているから、女官生である』と。
姑魯妹が女官生であることはほぼ確認できた。次に入監年について考察してみたい。姑魯妹の入監年について諸書の見解を示すと次の如くになる。
明実録系・・・入監年の記録なく三十一年に先 に入監したことに対する恩を謝 する爲に來京したことを記す。
明史稿系・・・入監年を洪武二十九年と明記。
野獲編系・・・入監年は明実録系と同じ。
琉球入学見聞録系・・・「入監之年闕」
沖縄の研究者
真境名安興・・明史を引用して洪武二十九を入        監年とする。
仲原善忠・・・洪武三十一年を入監年とする。
阿波根朝松・・仲原説を踏襲して洪武三十一年        を入監年とする。
姑魯妹の入監年については右に見たように、入監年不明、洪武二十九年、洪武三十一年の三つ説がある。果たしてどれが入監年として当を得た見解かを考察したい。
まず、仲原善忠の洪武三十一年入監説から考えることにする。
仲原善忠は「官生小史」で姑魯妹の入監年を洪武三十一年としているが、何を根拠にしているかをまず明らかにし、それによって導かれた見解が妥当なものであるか否かを検討していくことにする。
仲原善忠は「官生小史」で姑魯妹について記すに「明史」「中山沿革志」「琉球入学見聞録」を参照しているようであるが、「明史」は入監年を洪武二十九年としているので、「明史」は入監年の批定には参照されてない。また、「琉球入学見聞録」は「入監之年闕」としているので、これも参照されてない。従って、残りの「中山沿革志」に拠っていると考えられる。
「中山沿革志」は「明実録系」の史料で、これからは洪武三十一を姑魯妹の入監であると導きだすことはできない。先にあげた史料をみても明らかな如く、確かに「中山沿革志」の洪武三十一年の条に姑魯妹のことを述べてはいるが、そこには前に在京讀書したことがあるので、その恩を謝するために洪武三十一年に來京したことを記しているのであって、決して姑魯妹が三十一年に入監したとは記してはないのである。仲原善忠が洪武三十一年を姑魯妹の入監年としたのは、「中山沿革志」の誤読によって導引した見解であると考える。すなわち、三十一年入監説は誤りであると見るべきであろう。
姑魯妹の入監年についての三説のうちの一説すなわち洪武三十一年入監説は否定された。従って、残りの二説、すなわち、入監年不明、二十九年入監説のいずれを採用するかであるが、明史稿系史料に従って一応洪武二十九年を姑魯妹の入監年であるとしておこう。
さて、「明史稿」洪武二十九年の条を見ると、「中山亦遣寨官子二人及女官生姑魯妹二人、先後來肄業・・・」とあり、洪武二十九年には四人入監していることがわかる。ここに若干の問題がある。「女官生姑魯妹二人」をどう解釈するかである。すなわち、「姑魯妹二人」というのは姑魯妹と別人を合わせて二人と解釈するのか、それとも姑魯、と妹とに区切って二人と解釈するのか、あるいは姑と魯妹の二人と解釈するのかという問題があるのである。「明史稿」の「女官生姑魯妹二人」あるいは「中山沿革志」の「女官生姑魯妹偕入謝恩」を各々を単独に見た場合は、姑、魯妹あるいは姑魯、妹の二人と解釈することも可能である。
ところが、「明実録」に「先是、其國女官生姑魯妹在京讀書、至是、謝恩來京」とあることによると姑魯妹を一人として解釈した方が妥当であるようである。その他の史料を見ても姑魯妹を一人として解釈した方が妥当であるように書かかれている。
姑魯妹は一人であるとするなら、「明史稿」にいう「女官生姑魯妹二人」とあるのは、女官生姑魯妹と別人の合わせて二人と解釈できる。
姑魯妹が女官生であること、入監年は洪武二十九年であること、及び姑魯妹は一人であることが確認できた。となると、次に問題となるのは、「明史稿」に「女官生姑魯妹二人」とあるように、姑魯妹とともに来たもう一人の人は誰であったか、ということにになろう。次にこれを考察することにする。
姑魯妹は洪武二十九年の入監である。そのとき姑魯妹は誰とともに来たかを考察するには、洪武二十九年の入監者が何人で、誰々であったかを明らかににするこにようって解決できるであろう。
「明実録」洪武二十九年十一月乙卯朔(戊寅)の条をみると次のような記録がある。
「中山王世子武寧・・・中略・・・遣其寨官之子麻奢理・誠志魯二人、入太學、先是、山南王遣其三五郎、入太學、既三年歸省、至是、復與麻奢理等、偕來、乞入太學、詔許之・・」と。
この「明実録」の記録から、洪武二十九年には麻奢理、誠志魯、三五郎の三人が入監したと解釈できるが、姑魯妹を含めて四人入監したと解釈するのは難しい。しかし、麻奢理等の「等」というのを無理に解釈すれば、その中に姑魯妹が含まれていると考えることもできるが、三人が入監したとみなすのが無難なようである。すなわち、「明実録」からは、姑魯妹が二十九年に入監したと導きだすのは難しい。
ところが、「明史稿」の洪武二十九年の条をみると「寨官子二人及姑魯妹二人」とあって、洪武二十九年には四人入監した如く記されている。
洪武二十九年には四人入監したようである。では、その四人とは一体誰々であったのだろうか。
「明史稿」にいう寨官子二人とは「明実録」にいう「寨官之子麻奢理、誠志魯」の二人であることはすぐに了解できる。では、「明史稿」に「女官生姑魯妹二人」と記しているように、姑魯妹とともに来たもう一人は誰かということになる。
さて、「明史稿」に「二十九年春、遣使來貢、令山南生肄國學者、歸省、其冬復來」という記録があるが、それにいう山南生とは「明実録」の洪武二十九年二月己丑朔の条に「詔遣國子監琉球生
三五郎等歸省」と記す三五郎であろうことがわかる。
そこで、三五郎について整理すると次のようになる。
々辛霪鷭集淒、三五郎、入監(「明実録の洪武二五年の条)
洪武二十九年二月、三五郎、三年國子監で勉学して歸省す(「明実録」二十九年の条)
9辛霪鷭酋綰十一月、三五郎入監(「明史稿」及び明実録)
「明史稿」にいう寨官子二人とは「明実録」にいう麻奢理・誠志魯の二人であり、「明実録」と「明史稿」から三五郎は洪武二十九年の冬に入監したことが明らかになった。
以上のことから、姑魯妹とともに洪武二十九年に入監したのは三五郎であると考えることができる。従って、洪武二十九年に入監した者は、麻奢理・誠志魯・三五郎・姑魯妹の四人であったということができる。
まとめ
仝範ニ紊禄官生である。
姑魯妹は三五郎とともに洪武二十九年に入監した。
9辛霪鷭酋綰の入監者は、麻奢理・誠志魯・三五郎・姑魯妹の四人であった。
以上「女官生姑魯妹」につい考察してきた。わたしは今まで見てきたように「女官生姑魯妹」は存在したと思う。しかし、偉い先生が姑魯妹女官生説を否定し、それが定着している中でわたしの小論が許認される得るかはいささか疑問なしとはせざるも、とりあえず、先学の後塵を拝し小論をまとめてみた。御批正を賜はらば望外の幸いであります。(昭和六十二年脱稿平成7年刊に付

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2021/09/17(金) 刑死にあった山南生官生賀段志

刑死にあった山南生官生賀段志

段志毎は洪武26年入監の中山王察度派遣の官生である。この段志毎の入監の時に他にもう一人いてその人は刑死にあった説く書があるが、果たして洪武26年には二人の官生が入監していたのであろうか。もし二人入監していたとしたら、誰と誰であったのだろうか。刑死に遭ったのは誰であったのだろうか。それらを明らかにするのが目的である。

諸書によると洪武26年入監官生について次のように記している。

『明実録』・・・洪武二十六年四月乙亥朔 (辛卯)琉球國中山王察度、遣̪使壽禮結致、貢馬及方物、幷遣使寨官子段志毎、入國學讀書

『中山沿革志』・・・二十六年、遣使麻州等貢方物、已又遣使壽禮結致等、貢馬、偕寨官子段志毎、入國子監讀書、太祖命賜夏衣靴襪、秋又賜羅絹衣一襲、跡漏撞詆朧瓠∋明А∈佗有賜

『中山世譜』・・・二十六年己酉、王遣麻州等、貢方物、又遣壽禮結致等。貢馬、偕寨官子段志莓(ママ)、入監讀書

『女官生姑魯妹』・・・三五魯毎が洪武二十六年に入監(明実録と明史をもとに私が導いたもの)

以上の記録から見て洪武26には段志毎一人が入監したものと思われる。ところが阿波根朝松の『歴代官生氏名年表』を見ると

37段志毎にしみ外一人 1392 洪武26 元中10 中山王察度 寨官ノ子 遣明使者 見聞録には段志毎と表記。他の一人は詔書をしたるため彼の地で刑死(仲原氏覚書)

また仲原善忠の『官生小史』所載の『官生年表』を見ると、洪武26年入監官生のことを次の如く記している。

3 洪武26(1393) 中山王察度 段志毎 寨官ノ子 「明使」(ママ)二四(ママ)トアリ 中山生一人死刑、詔書ヲ非難シタ罪

右の阿波根朝松と仲原善忠の両氏の説に若干の問題があるので考察を試みたい。

仲原善忠の『官生小史』の洪武26年の入監官生段志毎の備考に『中山生一人死刑、詔書ヲ避難シタル罪』とあるのは、『明史(巻223 外国4 琉球傳)』の明年(洪武26年)『中山両入貢、又遣寨官子、肄業國學、是時國法嚴 中山與山南生 有非議詔書者、帝聞 置之死、而待其國如』に拠っていると思われるが[注1]この『明史』の記録からは、仲原の説くように中山生一人が死刑になったという解釈は生まれえないと考える。何故なら『明史』を素直に読んで明らかな如く『明史』には入監」したのは中山の段志毎のみであり、そして「中山與山南生」が刑死になったことを記しておるのです。決して中山生のみが刑死にあったということことは書かれてはいないのである。従って仲原の『官生小史』の備考欄に於ける誤解によって生じた説を踏襲して、洪武26年入監者を段志毎 外一人とした阿波根朝松の『備考欄』の説も誤りだといえよう。

では右に記した『明史』をどの様に解釈」すべきだろうか。『明史』で「是時」とは」、洪武26年である。前に見たように洪武26年には中山官生段志毎が一人入監しているのみである。なのに『明史』では「中山與山南生」記している。これをどう読むのかだが、中山生と山南生とが刑死されたのであるから 洪武26年に段志毎が一人入監したときには、すでに山南生がいたということになるだろう。

さて洪武26年現在に於いて在監かんして琉球ンお官生にどのような人達がいたのどろうか。『明實録』に拠ると、日孜毎(中山生)[注2]、濶八馬(中山生)[注3]、仁悦慈(中山生)、三五郎尾(山南生)、實他盧尾(山南生)、賀段志(山南生)及び26年入監の段志毎(中山生)の7人が在監している。この7名のの中に、詔書非議して刑死されたものがいたのであり、決して洪武26年の入監者が2人いてその中の一人が刑死されたのではないのである。

何名が刑死されたのかしる術もないのであるが、三五郎尾(山南生)、實他盧尾(山南生)の2人は『明實録』に洪武29年

に帰国したとあり、仁悦慈(中山生)も『明實録』に『洪武30年8月庚辰朔、賜國子監琉球生仁悦慈等羅衣、人一襲』とあるから、この3名は刑死されなかったことは確実である。

洪武26年現在在監していた7名の中、右3名を除いた残り日孜毎(中山生)、濶八馬(中山生)、賀段志(山南生)段志毎(中山生)の4人中いずれかが刑死されたと思われるが、刑死されたのは中山生と山南生であることからすると、その内山南生は賀段志(山南生)しかいないので賀段志は当然に刑死されたであろうと考えられる。しかし残り中山生が何人処刑されたのか分からないが、『明實録』に帰国したという記録がない、日孜毎、濶八馬、段志毎も処刑されたと考えるのが妥当であろう。

まとめ

1 段志毎は洪武26年に入監したが、その時の入監者は彼一人であった。

2 賀段志(山南生)は処刑されたと考える。

3 帰国した記録のない中山生である日孜毎、濶八馬、段志毎等も処刑されたと考えられる。

4 仲原 阿波根の説に誤解を検証した。

以上、小生なりに結論を出してみた。諸兄にご批正を賜ることができたら幸甚に存じます。

[注1]仲原善忠は『官生小史』の作成要領を次の如く記している。「氏名の検出は、中山世譜、明史(列傳)、清史稿(列傳)を中軸とし、他の諸書を参考にした」と、洪武26年段志毎の備考欄で『明使』とあるのは『明史』の誤植と思われる。また、備考欄に記されている事件は、野口鐡郎も説くように明史以外に中国の史書、琉球の史書は傳えるところがない。以上の理由により「明史」に拠ったとしたのである。

[注2]日孜毎(中山生)、濶八馬(中山生)が明らかに洪武26年まで在監していたとの確証はないが、彼らと同にきた仁悦慈が洪武26年現在において在監しており、又洪武29年まで、官生の帰国のことが見えない。以上のことに拠って在監していたとしたのである。

[注3]もし賀段志が処刑されたとすれば、洪武26年11月壬寅朔、壬寅以後である。何故なら、その時までは賀段志は生存していたからである。



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